5月 18, 2010 at 10:50 AM
2010年5月15日(土)「京都21世紀教育創造フォーラム」が立命館小学校であったので行ってきた。
いろんな催しがあったが、あまり見る気にならずぶらぶらしていて、15時からの基調講演とパネル討議へ。
講演は小宮山宏氏(元東大総長)。『「課題先進国」日本の教育』さすが工学系出身者だけに実際の数字を述べながらの解説で説得力があった。ただ会場の数百人の何割の人に届いたのかは疑問。(私は専門家でよく分かっているのだ、どうだの臭いぷんぷん)
私としては理論値と実際の数字の開きが生じて、どうして縮まらないのかを聞きたかった。学校に社会人を3名入れるのは大賛成!!
パネル討議は圧倒的に、島津製作所の服部会長の話が印象的だった。
1万5千人の入社応募者に4つの適応性を示してまず5千人に絞り、面接が3度。最初は若い担当者がこの人と仕事したいかどうかで選ぶ、次は管理職。ここまでは成績は見ない。最後は役員面接でこのときは成績も見るらしいが、ほとんど管理職面接で決まりらしい。
だから、勉強ばかりして成績がいいだけではダメだというお話を会場に来られていた保護者へのメッセージとして。
でも、結局だからどうすればいいのかなんかわかったようでわからない話?かな。
鈴木寛副大臣は、あまり印象に残らなかったし感動的ではなかった。政治家のお話だと思った。
プレゼンがうまくないとも思った。(視聴者を引きつけると言う意味で)期待していただけにがっかり。
司会のパナソニックの小川理子氏は知的で冷静な言い回しで、そつなくこなし、なかなかの人物と伺わせた。彼女の意見も聞きたい。
終わった後の糸井氏と川本氏との飲み会談義はかなり盛り上がった。このためにここまで来たのかも知れない。
5月 18, 2010 at 9:17 AM
先週金曜日にいつもの「IZAKAYA」を開催した。
新任の先生3名を含めて10名がKayaの狭い事務所に集まった。
新任のH氏の担任のクラスの話で盛り上がり、みんなで意見を出し合った。私自身も10年前から普通の学校へ行かせて貰ってそれなりに実状は分かっていたつもりだったが、もっと事情を抱えたところがあることを知った。
本当に教師は教えることだけではなく厳しい状況にある。毎日いろんな事と戦い、試行錯誤を繰り返しながら子どもたちと接していかなければならない。でも今までの資産を生かすことと学校全体としての対応力が生かされればと思う。願う。
ほんの2ヶ月前まで学生だった彼らも、いきなりの現実の中で苦しくても頑張っている姿に感動した。
これからも応援していきたい。
私には何も出来ないかもしれないが・・・。
5月 18, 2010 at 12:32 AM
明日の教室DVDシリーズ
このシリーズを制作していることが、私の生きた証かも知れないとふと思った。
やっと私はアーキビストだと確信できたから。
5月 10, 2010 at 6:45 PM
http://sogogakushu.gr.jp/?p=895
約1ヶ月前にこう書いた。<学校単位で教職員がみんなで協力して作り上げるという意味での「学校づくり」という概念が・・・>
このプロジェクトを動かす具体的なアイディアが浮かんだ。(というほどでも無いけど。結構真剣です)
取っ掛かりとして、新任の先生が困っている様子があり、それにアドバイスする先輩先生達という構図から始める。
先生ってみんなまじめで、ダメな子どもを放っておけないということを逆手に取って考えた。
新たに学校とはと大上段に構えて始めるより、新任の困っている先生のためにみんなが相談に乗る、自分の経験談を語る。そしてそんな先生が二人三人四人と増えていき、いつもまにかみんなで話し合っているという姿を思い浮かべました。
これならどこの学校でもありそうだし、実際あるだろう。ただ全校にまで広げられない。ここはまた考える。
これって私が夢想するナレッジマネジメントの理想型の姿です。
具体的にシナリオ化しないとダメだが、
登場人物 新任教師A・B・C、先輩教師D(3年次)、E(10年次),F(20年次)でこれから書いてみます。
重要なポイントは、主人公の新任教師の性格とこの流れを全てアーカイブする人がいること。もちろんリーダーシップも。
モデレーター(いまの言葉でいうファシリテーター)が必要でもある。
※どうして、こう思ったかというと実際今知り合いの新任の先生が困っていて、なんとか回りの先生に助けて貰っているという話を聞いたので。ただそのH先生は放っとけないというオーラが自然に出ているので、実現できそうだと思った。
5月 6, 2010 at 5:41 PM
http://blog.tatsuru.com/2010/04/28_1018.php
なぜか、静かに深く沁み込んでくる。
●引用:
労働は価値を創出する。だが、価値というものは単体では存在しない。価値というのは、それに感動したり、畏怖したり、羨望したりする他の人間が登 場してはじめて「価値」として認定されるからである。
<中略>
労働の価値は労働そのものに内在するわけではない。その成果を享受する他者たちによって事後的に賦与されるのである。
<中略>
働く人が、誰に、何を、「贈り物」として差し出すのか。それを彼に代わって決めることのできる人はどこにもいない。贈り物とはそういうものであ る。誰にも決められないことを自分が決める。その代替不能性が「労働する人間」の主体性を基礎づけている。
<中略>
その「贈り物」に対しては(ときどき)「ありがとう」という感謝の言葉が返ってくる。それを私たちは「あなたには存在する意味がある」という、他 者からの承認の言葉に読み替える。実はそれを求めて、私たちは労働しているのである。