2001.01.05 杉原五雄氏(東京都公立小学校校長) |
総合的な学習の時間について私の見解1.畑と英語とコンピュ−タ 『総合的な学習』について、この時間の生まれた本当の背景と、今後あり方を探ってきたが、結論として、文部省としては今後『総合的な学習』の時間で具体的に取り扱っていかなければならない分野として 本校には、都会では考えられないほどの広い学校園を持っている。 私には、去年まで20年間、実際に自分で100坪の畑を耕し、30種類以上の野菜を栽培してきた経験がある。本物の農民には及ばないまでも、農業に関してはある程度のノウハウはもっているつもりである。自然体験カリキュラムについて、この学校園は利用できる。 区内の全ての小学校に、数年前に一斉に21台のコンピュ−タが導入されている。これはすごいことである。ただ、あまりにも早く導入したので、現在のニ−ズにあわないコンピュ−タが導入されてしまったことと、使いこなせる教員が限られてしまい、宝の持ち腐れ的な要素は否定できない。 この分野でも、私はある程度の経験と知識を持っている。前任の大田区で情報教育部長を7年間務め、コンピュ−タ導入にかなり深く係わってきた。その間に課題校を受けたり先進的な研究にもてがけてきた。また自分自身もコンピュ−タを購入して、自宅でインタ−ネットなど楽しんでいる。 英語については、全く自信がない。過去『ここは日本だ。なぜ日本人が外国の言葉ではなさなければならないのだ。』などと、時代錯誤の考え方をしていたツケがまわってきたらしく、今入学手続きに来る外国人との対応にも苦労している。 また、インタ−ネットにおける情報の90%は英語情報である。翻訳ソフトに助けられながら情報収拾しているのであるが、より正確な情報を得るためにも、英語力は必修だと感じている。 このようなことをベ−スに文部省の方針も折り込み、私は本校の『総合的な学習』を進める上でのキャチレ−ズとして『畑と英語とコンピュ−タ』を研究テ−マの基本のコピ−としようと考えている。 ネ−ミングとしても悪くない。小学校といえども学校の特色を打ち出さなければならない時代になった今、このコピ−は極めてわかりやすいのではないだろうか。 ただ、畑で農業の技術を指導したり、英会話を日常の学習カリキュラムとして位置づけたり、コンピュ−タ室でコンピュ−タと対面した授業を是とするような狭い考え方はするつもりはない。 そのことについて私の理念をハッキリさせておくことにする。 1.畑教育にとってというより、人間として最も大切にしなければならないことは『命』であることは論を待たない。最近この『命の教育』がかなりあいまいになり、自分の命はおろか他の人や生き物の命を大切にする心が薄れていることは嘆かわしい事実である。原因はそれぞれの人が探り論述しているが、特定できるわけはない。私に言わせるならば、人間の奢りが環境を破壊し、自分にとってよりよい生活の場の追求が、無差別的に価値観を多様化したからであると考えている。 この6月に文部省の生涯学習審議会から出された答申『青少年の〔生きる力〕をはぐくむ地域社会の環境の充実方策について』には、タイトルとして『生活体験・自然体験が日本の子どもの心をはぐぐむ』とある。 この答申で指摘しているとおり、現在都会で生活する子どもだけではなく、自然豊かな地域の子どもたちにおいてさえ、生活体験・自然体験が不足していることが、現代の子どもの心の荒廃の一因になっていることは誰もが認めるところである。 命の大切さを教えるのには、命を育てることに勝るものはない。動物を育てた経験を持つ人は誰でも経験することであるが、自分が育てた命が無くなったとき、芯から悲しい気持ちになる。 自分が育ててている動物の何気ない仕種や愛らしい姿に、ふと安らぎを感じ、癒しの一時を過ごすことができる。この安らぎの心こそ、我々教師として、現代の子どもに与えていかなくてはならない。 私は、この『命の教育』のフィ−ルドとして、本校にある都会では考えられないような広い学校園(畑)を位置づけたいと考えている。 自ら汗を流して体験することは、体を通した確かな理解と、場に応じて対応できる能力を育てる。やり通した感動が成就感や充実感を高め、自ら学ぶ力・生きる意欲の源泉となる。また感性が磨かれ、視野が広がるはずである。 子どもと教師が共に泥にまみれて、草花や野菜を育てる。芽生えに感動し、毎日優しい気持ちで世話を続ける。このような活動から生命の尊さや自然を愛する豊かな心が育つはずである。苦労を共にした喜びが、相手を思いやる心や協調の大切さを育み育て、児童と教師の絆は強くなり、より良い学級、質の高い教育活動へと進展し、情操豊かで人と自然を愛する子どもの育成につながると信じている。 できれば、種の一粒一粒から芽生える命から苗を育て、その苗を移植し大きく育て上げる過程を通して、命の大切さを指導していきたい。このような活動が、子どもの心を和やかにさせ、相手をいたわる気持ちの育成に良い方向で大きくかかわっていくはずである。 この畑をベ−スとする活動が、生き物への愛情になり、自然に対する尊厳の心を育て環境問題にも鋭い感覚をに発展することを願っている。命を大切にすることは自らの健康にも注意することになるはずであり、この理念を追求することによって我々が目指している子ども像に迫れるものと信じている。 大根やジャガイモ育てる技術的なことも大事であるが、最も大切にしなければならないことは、育てる過程で一人一人の子どもの心を揺れ動かせる教師の姿勢である。この姿勢が命の大切さと共に、健康に対する心構えに対する意識を高めるのである。 さらに、子どもとともにその体験の場を校外へ広げたい。地域のありのままの姿や、人々の生活などを教材化して、取材しその中で得た課題を解決するための手段として、体験を授業に生かしていく。地域の人々との豊かな触れ合いは『ふるさと我が町』の心をゆれ動かし、自分の住む町に誇りと自覚を生むと確信している。 ここから発展して、環境学習や保健体育学習、さらに性教育やボランティア教育や福祉教育などに発展していくだろうことは論を待たない。 2.英語価値観が多様になり、何でもが許容される社会になったが、それだけに自分に責任が取れる人間でないと、今後の社会では通用しにくくなることは確実である。 今までは生き方にお手本というか、一つの流れがあって、その流れに乗っていれば何とか地位や名誉などが得られたのだが、その流れがいくつもに分かれ流れ方や方向までそれぞれがバラバラで一定しない。自分がどの流れに乗るかは自分の判断で決めなければならない時代になったと言える。 また、交通や通信の飛躍的な発展により、地球はますます狭くなり、極端にいうならば世界的に日帰りが可能になってきた。 これからの社会派、世界の国や人々と上手な付き合いが必要となってくるにちがいないが、相手をきちんと評価して自分の責任で付き合うことは、私たち日本人にとって何よりも苦手なことのようである。 特に語学力が大切になってくることが確実視されるが、残念ながら私を含めて、外国語に対して自信のある人が圧倒的多数を占めている。いろいろな原因が考えられるが、一民族一国家のわが国で、しかも外敵からの進入を凌いできた風土や人的な環境は、外国語をあまり必要としなくても生きていけたことが最も大きな要因にちがいない。 戦後中学校から、英語の時間が設けられ学習してきたが、その授業は日本人教師による文法中心の英語であって、即外国人と話せるためのものでなかったし、その傾向は現在でも踏襲されている。 いつの間にか、中学高校の英語のパタ−ンは大学入試と一本化し(どちらが先か分からないが・・・・)進行形や関係代名詞などの言葉とその利用法など意味が先にきて、文意を理解することが苦手になってきた。 現在の教育界を動かしている一部の人たちは、このことについてかなりの論議をし、これからの英語(外国語)教育のカリキュラムを考えていく、という現実の問題に直面したとき、小学校からの英語教育の必要性を語ったに違いない。 しかし今、小学校で英語を教科として位置づけてみたら、恐らく中学校の英語と同じことになり、進学塾や教材屋の喜ぶだけのものになってしまう、という結論に達したのではないだろうかと予測している。 また、現実に小学校の教員のほぼ全員が、英語を指導する素地も資格もないことなどから教科として位置づけることは無理だと判断したのではないだろうか。しかし、日本の将来を考えたとき、このままではまずい、何とか小学校の時から外国人(主に英語圏を対象にしていると思うが)と対等に話せる態度を養うためにはどうしたら良いか、その結論として『総合的な学習の時間』の新設があったのだろう。 私は、私自身英語を話せないことが残念であるとともに、今英語の大切さは十分りかできるが、小学校段階で英語そのものを教える必要があるとは考えていない。 むしろ、英語を含めて、外国語に対してのアレルギ−をなくし、違う言葉や文化の存在を認識した上で、異質な言葉や文化を有するその言葉を話す人々も、自分たちと同じ地球上で暮らす仲間だという意識を育てることが大切だと考えている。 いろいろな国の人たちと話したしてコミュケ−ションをとることは大切であるが、多くの場合、その会話の基本となる言語は英語になっている。そのことだけはしっかり抑えた上で(英語のもつグロ−バル性)様々な国々や地域の人々との交流を図ることを進めていきたい。 児童は経験のないことに対して、課題を見つけることなどおよそ不可能である。従って当初は興味本位であっても差し支えない。言葉は悪くなるが、面白半分で外国人と接したとしても、頭ごなしに叱責してはならない。相手が特に感情を害するような言動は強く指導する必要はあるが、ゆったりとした気持ちで見守っていくことが大切である。教師のこのようなおおらかな指導は、児童の心をゆさぶり、時間の経過とともに、児童自らが何かを知りたい、調べたいという姿勢に発展するにちがいない。 3.コンピュ−タ世はまさにマルチメディアの時代。あらゆる情報が私たちのまわりを飛び交うようになって久しい。しかも、その情報は新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどの既存のメディアのみか、ビデオやCD・MD・LD、最近はDVD等音声と映像が一体化したメディアによって、より臨場感のある情報としてひしめき合っている。 今まではテレビに代表されるように、情報を受信するだけの、いあば片道通行の情報伝達であり、その受け取った大量の情報の中から、いかに読み取り取捨選択していくかという能力を磨くことが何より大切であった。 現在の『情報教育』という言葉の中にはこの能力を磨き、さらに自らが学ぶ力としての判断力や自主性を養うことが主流になっているようである。 私は、これからの『情報教育』のあり方としては、必要な情報を得るためには私たちの方から積極的にリクエストができると共に、実際に取り出せるようなシステム、すなわち双方向の情報伝達機関のネットワ−ク化が必要と考えている。 情報を分析する能力を養うことや、その情報から正しい判断力を養うことはもとよりその情報を正しく運用し、社会に貢献しようとする姿勢を養うことが『情報教育』の目標であることは論を待たない。 私は、情報を得る過程において、大量に得た情報の中から必要な情報の取捨選択ではなく、今どんな情報が必要でどのような方法で得られるかが判断できる能力の方にウエイトをおきたいと考えている。 現在はコンピュ−タをはじめとするメディアの発達により、誰もが大量の情報を得ることができる時代である。この傾向はこれからますます著しくなりこれからは情報の質を問われるようになることは確実である。 コンピュ−タを使いこなすことが情報社会を生き抜く必要最低条件のように思われている。確かにこれからの社会ではコンピュ−タを抜きにして語ることはできないことは確実であり、ありとあらゆる分野や現場にコンピュ−タおよびコンピュ−タ技術が進出し誰でもどこでも使われている。 コンピュ−タはこれからの教育に、絶対欠かせることができないメディアとして位置づけられており、そのために学校現場でもコンピュ−タを使った教育が必要と考えられ実践に移されつつあるが、私たちはすでにコンピュ−タの技術を実生活のあらゆる場面で使いこなしていることを認識し、コンピュ−タを使いこなすこと自体たいしたことではないという意識をもたなければならないのではないだろうかと思っている。 しかし学校現場の実情は、コンピュ−タは難しいから敬遠しているきらいがあり、ややもすれば避けて通りがちで、実際に導入されているにもかかわらず全く使われていなかったり、一部のマニア的な教員の玩具となっている傾向は否定できない。 ソフトがあれば動くが、なければ全くのただの箱であり、得られる情報もソフト以上のものは求めることはできない。特にドリル教材においては、一度使ってしまうとその発展性がなくなってしまうものも少なくない。 私は、これから教育を進めるにあたっては、双方向の情報伝達システムの充実が最も緊急で重要な課題であると確信している。人間が対話や討論を経て成長するのは、お互いを尊重するという姿勢が生まれるからであり、一方的な訓話や指導では発展成長は限られてくるのは明らかである。 膨大な知識や情報量に対応するため、あらゆる教育機関とのネットワ−クシステムが完備し、それを使いこなすことによって、対話や討論という人間の成長に大切な要素が身につくのではないだろうか。 このネットワ−クの端末機器がコンピュ−タであると考えると、コンピュ−タに対する認識は随分ちがってくるはずである。単なる端末機器であるから、私たちにとっては電話やフアックスと同じ程度の意味しかもたなくなってくる。 コンピュ−タを使いこなし質の高い授業のデ−タ−を収納しておきさえすれば、コンピュ−タそのものの仕組みなどは全く知らない人でも操作方法だげ知っていれば、同じような授業を構築することも可能となる。 必要な情報を必要な時に取り出せると共に、通信機能を利用することにより世界各地の人々と対話することも可能となってくる。 何より大切なことは、あらゆる情報があふれる社会においても、得た情報を基に世界を視野にいれて、社会全体のよりよい発展に役立てようとする心構えである。情報を上手に収集・処理・管理できる人は、相手の立場をよく理解し共に向上しようとする人である。 そのような人を育てることが教育の根本的なねらいだと考える。 今真剣に論じられている『総合的な学習の時間』のキ−ワ−ドは『コンピュ−タ』であることは、多くの識者が指摘している。私もコンピュ−タが間違いなくこれからの学校教育の教育道具として確実に必要なものであると確信している。 私は『コンピュ−タに対してのアレルギ−がある』『私はコンピュ−タを使えない、使いたくない』という教員の声が聞こえるようであり、その実態も認めるが、これからの日本を担う子どもたちに、教員が自分の得意不得意などという自分の思惟でコンピュ−タを使わせないとか教えない、という『わがまま』は通用する時代ではない。 使えなくてもよい、嫌いでもよいから、正しいコンピュ−タに対する認識だけは身につけて子どもたちの未来に生かしたいものである。 ただ気をつけなければならないことは、教師自身がコンピュ−タに対する正しい認識を身につけることである。私は『コンピュ−タは使い方さえ間違わなければ、最高の道具であるが、その使い方を間違ったとき、人間の心を蝕む悪魔となる』と日頃から考えている。また機会ある度に語り続けている。 今までの例を見ていると、ある日突然コンピュ−タ室ができ、そこに数十台のコンピュ−タが導入されて『コンピュ−タが導入されました。授業に使ってください。』という学校が圧倒的でなかっただろうか。 ワ−プロなら何とか使っているが、コンピュ−タは見たことはあっても、触ったことはないという教員が圧倒的な教育界において、これでは汎用化されるはずはない。極く一部の教員が飛びつき、コンピュ−タさえ使った授業さえしていれば先進的だとの錯覚が、蔓延したのではと考えているのは少し飛躍があるかもしれない。 コンピュ−タを特別のものと考えず、テレビやビデオと同じ程度の機械であるという認識を持つことが必要である。そして、スイッチの入れ方とキ−ボ−ドやマウスなどの基本的な周辺の機器の扱い方だけは必ずマスタ−さえすれば、コンピュ−タは良き友達になるはずである。 チャンネルの選び方(コンピュ−タの使い方)などさえきちんと指導すれば、子どもたちは自らたてた課題の解決に、学習の道具としてコンピュ−タ(これからは情報収集やコミニュケ−ションの道具としてインタ−ネットが重要視されるに違いないが)を駆使して学習を進めるにちがいない。 そのよう環境を整えるのは我々教師の使命であるだろう。 (杉) (杉原教育研究所 「総合的な学習について」より転載させていただきました) |
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