高専実践事例集V
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1998/12/20発行

   


  
こんな授業をやってます

   
menu
 

T 感動させます
  1 新鮮な体験だからひきつける

 

 ●異文化理解の新しいかたち(38〜49P)

  広告のむこうにアメリカが見える     飯野一彦  群馬工業高等専門学校助教授

     
 

 はじめに

 
   

  20年程前、私の初めてのアメリカ体験の中で見つけたひとつの楽しみは、夜、安宿でハンバーガーをかじりながらテレビを見ることであった。テレビを見るといっても番組そのものではなく、番組の合間に流れるコマーシャルを見ることだった。それまで見たことも聞いたこともなかったアメリカの商品から、果ては日本のクルマや電気製品のコマーシャルが、次から次へとめまぐるしく流れてくる。コミカルな映像とユーモラスでパンチの効いた広告コピー(宣伝文句)。日本のコマーシャルしか知らなかった私にはどれもこれもが新鮮で面白かった。そして見ているうちに、そこには教科書では学び得なかったアメリカそのものが映し出されていることに気がついた。

  以来、テレビ・コマーシャルだけでなく、雑誌や新聞の広告にも興味を持ち、広告コピーを授業に取り入れながら、その背後に見えかくれする社会や文化、そして言葉の持つおもしろさなどを学生に伝えたいと思っている。

 

   広告は社会を映し出す鏡
   

 広告コピーは文化的価値という観点から小説や評論と比較されると、一般的には低俗に見なされがちだが、社会や時代の流れの最先端を切り取ってみせているという点では、一級の文化価値を持っている。

 例えば、ごく大雑把に過去の日本の広告コピーを振り返ってみただけでも、ずいぶんその時代の雰囲気を読みとれる。ヒッピー、アングラなど若者文化が花開いた頃の「イエイエ」(レナウン、1967年)、高度成長期の「オー、モーレツ」(丸善石油、1969年)、個人の価値観が認められるようになった頃の「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに」(フジカラー、1980年)、バブルまっただ中の「24時間働けますか」三共製薬、1991年)、そして最も新しいところでは、環境間題を意識した「エコ。あしたのために、いまやろう。」(トヨタ・エコ・プロジェクト、1997年)のように。

 それは、そもそも広告は売らんとする「商品」(または「企業」そのもの)をなんらかの形で表現するわけだが、そのためにはターゲットとなる消費者、つまりは一般大衆の心理や社会の価値観を鋭く察知する目を持っていなければならないからである。社会の流行、あるいは時代の流れに乗り遅れた広告は見向きもされないがゆえに、広告は社会や時代の雰囲気を自然と映し出そうとするのである。

 グリーティング・カードで有名なホールマーク社は“Cards Cange Because People Change.”というへッド・コピーとともに、次のような内容の広告を雑誌に出したという。「愛する子供たちに贈るバースデイカードと言えば、“Happy Birthday from Mom & Dad.”のメッセージが定番でした。でも、社会の変化に知らないふりはできません。ホールマーク社は、複合家族や片親家族も家族の形態として承知しています。“Happy Birthday to OUR Daughter.”カードとは別に、“Happy Birthday to MY Daughter.”カードを用意しました。」こんな広告コピーを読むと、思わずにやりとさせられてしまうが、そのあとアメリカ社会の姿がはっきりと目に浮かんでくる。まさに「広告は社会を映し出す鏡」なのである。

 

   ビールをめぐるアメリカと日本の文化の違い
   

 アメリカ社会は学生にとってどんなイメージなのだろうか。「大きい」「チャンスの国」「夢」「成功」。いろいろあるイメージの中でも、とりわけアメリカの持つ「自由」に対するイメージは強い。アメリカはなんでもかんでもが「自由」だと思っている。しかし、アメリカの自由は決して野放しの自由ではない。そんな「大人の国」アメリカの一面を垣間見せてくれるCMがある。

 雨のグランド。若者達がひとつの楕円形のボールを追いかける。カメラは雨と泥で汚れたジャージ姿の男達を追う。激しい当たり。泥沼と化したグランドで果敢にセイビングをする者。ナイス・プレーにハイタッチで応える姿。こぼれる笑み……。ひとしきりの練習を終え、シャワーを浴びてさっぱりした男達が満足そうにおしやべりをしながらパブに入ってくる。ナレーションが語りかける。「一日の終わりにみんなと握手を交わす。そしてピリッと冷えたすがすがしい、さわやかなブロッコリー……」画面は、若者それぞれが手に大きなブロッコリーを持って、乾杯(?)をしているシーンを映し出す。ここで画面にコピーが現れる。”It’d be weird without beer.”(ビールがないとなんか変ですね。)

 そう、これはビールが一度も画面には現れないが、れっきとしたビールのコマーシャルなのだ。このビールのCMには姉妹編があって、娘さんを嫁にもらいたいと言ってきた若者に、父親が若者の肩を抱いて乾杯する。その手にある物はなんとサバ。そして、“It’d be weird without beer.”というのもある。

 このCMに学生達は大笑い。が、次に「アメリカでは未成年者が誰のとがめを受けることなく自動販売機でお酒が買えるなんてことはない。お店に行ったって店の主人がやすやすと売ってくれるわけではない。こいつは未成年だなと思えば、身分証明書の提示を求める。それくらいアルコールには厳しい国なんだ。このCMでもわかるとおり、実はアメリカではテレビでビールを飲むシーンを流してはいけないというルールがある。これはそんなルールを逆手に取ったアイデアCMなのだ」とその背景を説明すると、ただ漠然となんでもかんでも自由だと思っていたアメリカの意外な一面を知って、学生達は一瞬静かになる。

 それに比べて日本はどうだろうか、と質問を向けてみる。日本では春夏秋冬、ビールのコマーシャルのオンパレード。老若男女がうまそうに一年中、ゴクゴク飲んでいる。以前、あるビールのCMで、若い女性が「♪秋が香るビール……」と歌いながらビールをおいしそうに飲むCMがあった。そのCMについて、コラムニストの天野祐吉氏が朝日新間日曜版の人気コラム「CM天気図」で、「若い女性にあんな透明な声でうたわれたら、ついのどがゴクリとなってしまうような高校生が、いっぱいいるんじやないか」と書いていたが、その通りだ。年がら年中テレビでゴクゴクうまそうにビールを飲むシーンを流しておいて、「お酒は二十歳になってから」なんて最後に言い訳程度に注意されたところで、それはもう若者のストレスを余計に助長するようなものだ。もし日本が成熟した社会なら、未成年に禁じられている商品を宣伝する際に、それなりのもっと出来の良いCMを作るべきではないかという提案をしてみる。その後、ビールのCMをきっかけに日本とアメリカの文化の違いについての議論がしばらく続く。

 

   言葉遊びとしてのCM
   

 社会を映し出す鏡としての広告という観点から一転、今度は広告に便われる言葉そのものに目を向ける。

 広告は基本的に絵(映像)とコピーで成り立っているが、その広告の善し悪しはやはりコピーで決まる。短く簡潔な言葉が勝負の広告コピーにとって言葉遊びは欠かせない要素だ。

 ダジャレとも、語呂合わせともつかない日本の広告コピーの古典的名作に、植木等が洋傘の宣伝をした「ナンデアル、アイデアル」というのがある。日本人はとかくダジャレが好きらしい。(余談になるが、かつて落語家の三遊亭小遊三さんがある週刊誌に5年にわたって連載していたダジャレの読者投稿コーナーには、毎週}3千作、のべにして約60万のダジャレ作品が届いたという。)また、言葉との「戯れ」(「じやれあい」と言った方が適切かもしれないが)で有名になったコピーでは、大橋巨泉の万年筆の広告がある。「みじかびのきやぶりてとればすぎちょびれ すぎかきすらの はっぱぷみぷみ−−わかるね」(パイロット・エリート、1969年)は、七五調の輪郭こそあるが、そこにメッセージらしいメッセージはない。

 日本語はそんな言葉遊びをするのに最も適した言語だと思っている学生も多いが、実は英語も言葉遊ぴという点では日本語に少しも負けていない。言葉遊びを利用した英語のコピーは多い。

 ニューヨークの職業別電話帳「イエローぺージ」の広告。雄牛が枕をして寝そべっているユーモラスな写真に、“Bulldozing”という単語が書かれている。Bulldozingは一般的には「ブルドーザーでならす」だが、ここではbull(牛)とdoze(うたたね)の造語になっている。このシリーズには、雌牛が大きな看板の後ろに隠れた写真に“Cowhides”というのもある。Cowhidesは本来「なめし革」という意味だが、ここではもちろん、cow(雌牛)とhide(隠れる)をかけている。

 日産の4WD(アメリカでは4X4という)のポスター広告になると、単純な言葉遊びから、もうちょっと複雑な言葉遊びになる。写真には、泥と雨の中、岩肌もあらわな大地を駆け抜ける日産の頑丈そうなクルマ。そして、コピーが次のように語りかけてくる。

The Nissan 4×4
Because Nature
can be a Mother.

ここでは文字のレイアウトが重要な要素になっていて、まずこれを見た読者はNatureとMotherが近い位置にあるから、一瞬のうちに“Mother Nature(母なる自然)”を連想することになる。しかし「母なる優しい自然」とは正反対の荒々しい写真。よく見ると、MotherとNatureが離れている。そこでさらによく読むと、ここではMotherは「とんでもない奴」という意味で使われていることに気づく。Mother Fuckerという表現があまりにも下品なので、後の言葉が伏せられて使われているのだ。日本でも「そうはイカの……」まで言って、後は言わなくともわかるのと同じ手法だ。つまりこのコピーは「時に自然は、とんでもないことになるので、日産の4X4」となるのである。英語のコピーでよく使われるダブル・ミーニングの一例だ。ここまで説明してやっと納得顔の学生達。英語のおもしろさの一端に触れる瞬間だ。

 

   英語のタイポグラフィーについて
   

 日産の広告は単語の配列にまで神経を使った広告となっていたが、広告における印刷活字の選定や異種活字の組み合わせ、配列や色の指定等を含めた活字表現技術は「タイポグラフィー」と呼ばれるが、インパクトのある広告を作るためにはこの技術が欠かせない。

 日本語は縦書き、横書き、さらに右からでも左からでも自由自在に文字を配列できるという点で稀な言語かもしれない。しかも文字も、漢字、カタカナ、ひらがな、アルファベットとその種類は豊富で、広告にとっては実に便利な言語だ。

 その点からすると、英語はアルファベットの二十六文字、書き方も左から右と融通が利かないと思われがちだ。ところが、そんな英語にも表現の無限の可能性がある。前衛詩人e.e.commingsの詩を見てみよう。(「読む」ではない。)

 l(a  le  af  fa  ll  s)  one  iness

 一見、単に文字がでたらめに並べられているようだが、括弧の内と外を別々に読むと、Loneliness.A leaf falls.と読める。これは葉が一枚、木から離れ、地面に寂しそうにひらひら舞い落ちる様子を文字で表しているのである。




 イギリスのポップ詩人Roger Mcgough の詩では、言葉がネットを挟んでテニスボールように行き来している。(題名、“40 −Love”は「四十歳の恋」とテニスの「40対0」をかけている。)

こんな詩を紹介すると、学生は一様に驚き、英語表現の可能性を感じるようである。

 活字の種類の少なさはどうか。ここでもプロの広告の作り手はそんな英語の不自由さに屈することはない。

 クライスラーの輸入車事業部が三菱自動車からクライスラー専用に輸入している2ドア・クーぺ「コンクエスト」のコピーがそれだ。

 Once again Conquest blows the 鉄扉 off the 300ZX and RX7. “One test drive will clearly demonstrate why 300ZX and RX一7keep getting dust kicked in their泣きっ面.”“優秀Conquest”

 (またまたコンクエストが日産300ZXとマツダRX一7のドアを吹っ飛ばす。 一度試乗すればなぜ日産300ZXとマツダRX‐7がずっと後塵を拝し続けるのかわかります。優秀コンクエスト)

 アメリカ人の多くが漢字を読めるとは思えない。しかしあえてそこに漢字を使う。内容的には単な る比較広告だが、広告における言語のダイナミズムを感じさせる作品だ。 こうした言葉遊びはアメリカ人にとっては一種のおもちや遊びのようなものらしい。26文字を覚えた瞬間から、アメリカの子供達は言葉遊ぴの中に楽しみを見いだすという。今日のアメリカの広告界では、日本の広告の主流である、あまり言葉を使わず、イメージを前面に押し出した、いわゆる「ソフト・セル・アプローチ」の影響をかなり受け、商品の性能や長所を並べ立てる「ハード・セル・アプローチ」はあまり用いられなくなっているらしい。

 しかし「話し合い」を基盤にした民主主義の上に建国されたアメリカ。何十年連れ添っても、一日一回は“I Love you.”と言って言葉で愛を確かめる夫婦。その議論好き、おしゃべり好きの国民は、お互いのコミュニケーションや相手の説得のためには、最初から最後まで徹底して言葉を使うという伝統を今も堅持しているのである。そんなアメリカ人の国民性も広告のコピーから学生が読みとってくれないだろうかと期待している。

 

     おわりに……授業後日談
   

 広告を通して、教科書にはなかなか現れない日米の文化や言葉の持つおもしろさに少しでも気づいてくれたらいいと願って始めた授業だが、授業の終わりに「こんなCMが作れたらいいね」と軽い気持ちで言ってみた。すると、広告のおもしろさに目覚めた学生達は、見るだけ読むだけの広告に満足することなく、なんと自分達もコマーシャルを作ってみたいと言い出してきた。自分達があったらいいなと想像するハイテク・マシーンを英語のCMにするという。「できるものならやってみな」という軽い気持ちで0Kを出したら、翌週、「動物と会話ができる小型へッドホーン“Animal Talk”「破れた友情からおばあさんの曲がった腰まで直せる”Almight Repair Tool”」「好きな夢が見られる枕“Dream Pillow ”」など、英語で商品説明を書いてきた。間違いがあったら直してくれという。思わぬ展開に教師としてはうれしい悲鳴。中には英語のナレーションと台詞の入った絵コンテまで仕上げてきた者までいたのには驚いた。プロのCMにはかなうわけがないが、アイデアを活かした世界に一本しかないオリジナルCMをこうなれば撮るしかない。そして今、家庭用ビデオ一台でその撮影が進んでいる。

 

   
    UP ↑
    menu