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高専実践事例集V |
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1998/12/20発行
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こんな授業をやってます
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T 感動させます
5. 解説最新情報
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●知識のマニュアル化を脱しよう(238〜249P)
ドナウ河畔から見た日本
田代文雄
前沼津工業高等専門学校教授
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ドナウの流れは国によって呼称も色も異なる
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三年前、久しぶりにブダペシュトのドナウ河畔に立ってみた。相変わらずさまざまな国旗を付した貨物船が往還している。見ていて終日飽きない。「美しく青きドナウ」というが、ここでは少しも青くない。日本の観光客はたいてい驚き、汚染されていますねと言うが、昔から青くないのである。青いのはパッサウより上流で、合流する川の土砂のせいで色が変わり、ウィーンでも青くはない。それでもウィーンっ子は、ウィーンをこよなく愛する者には青く見えるという。
ドナウがヨーロッパ第二の長河であることは中学生でも知っている。ドイツのシュヴァルツヴァルトから黒海まで全長二八六〇キロ。この簡単なデータからして当たり前なのに、なぜか日本の本州より長いことも、多数の国を通過していることも、だから多くの国の船が行き交い、国によって河の呼称が異なることも頭に浮かばない人が多い。ドナウは言うまでもなくドイツ語呼称で、ハンガリー語ではドゥナ、ルーマニア語でドゥナーリア、ロシア語ではドゥナイという。
私も二十年以上前に初めて河畔に立ったとき、川面に浮かぶ船着場と河岸の小さい建物に国際港と税関の標識を見て、一瞬キョトンとしたものである。国際港といえば横浜のような大桟橋のある海港しか頭になかったからである。ましてや冷戦構造の時代に、西のオーストリアと東のソ連貨物船が同時に上り下りしている光景は予想もしていなかった(しかもソ連観光船の客は殆どが米人であった)。また新聞の天気予報欄にパッサウやウィーンの水位が載っているのを見て怪訝に思ったが、それから半月後にユーゴスラヴィアで大洪水となったのを知って納得した。雪解けや氷解はゆっくりと水位を上昇させて下流に洪水をもたらすのである(今は上流で定期的に氷を爆破している)。こんな当たり前のことも、日本的な常識イメージに支配されていると案外見えないものである。
ちなみに、かつてはドナウの航行権をめぐって列強が対立し、一九二二年のヴェルサイユ条約で国際河川となった。現在はドナウ委員会(本部ブダペシュト)が管理し、正構成国は独、墺、スロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、モルドヴァ、ウクライナと旧ユーゴ後継諸国である。つまりこれだけの国を通過している。九二年にドナウ=ライン=マイン運河が全面完成してからは北海から黒海までつながり、ソ連、ユーゴの解体もあって、船籍を示す旗の種類が増えている。
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日本は小国か大国か−−歪んだ地図
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こうしてドナウの河畔に立つと、多少は別の日本が見えてくる。例えば、日本は小国なのか大国なのか。今や経済大国であることは誰しも認める。地理的にどうかというと、もちろん小国と答える人が多い。だが、この地で日本は小国だというと冗談と思われる。事実、前掲のドナウ諸国はすべて日本より面積が小さい。それどころかヨーロッパ三五カ国中(サンマリノのよう極小国を除く)、日本より面積が大きい国はわずか三カ国にすぎない(ロシア、スペイン、フランス)。これも当たり前の事実だが、私たちは比較対象をぬきにして日本は小国だと思い込んでいるふしがある。
そのくせハンガリーの面積は日本の四分の一、人口は一千万余というと、そんな小国なのかと軽蔑の目付きをする。つまり奇妙な大国意識が顔をのぞかせる。だがヨーロッパで人口一千万以下の国が二〇カ国にものぼり、三千万を超える国は六カ国にすぎないことをきれいに無視している。ましてヨーロッパだけで約七〇の言語が話されており、一八四の少数民族がいる、すなわちヨーロッパ人の七人に一人が少数民族として生きていることなど、考えもしない。
一つには、私たちの頭の中のヨーロッパ地図が明治中期以来のもので(これに冷戦構造の地図が重なった)、現実と乖離しているせいではなかろうか。実は明治でも初期は違っていた。例えば岩倉使節団の『米欧回覧実記』にしても、明治政治小説の傑作『佳人之奇遇』にしても、すべてを学ぼうと驚異的な知的好奇心をもって、ヨーロッパの現実を丸ごと捉えようとしていた。『佳人之奇遇』正編にあってはポーランド、アイルランド、ギリシア、スペイン、ハンガリーの悲劇の独立運動志士が登場しており、作者の東海散士(柴四朗)も農商務相谷干城の秘書官として随行した巡欧の途次、個人的にブダペシュトのドナウ河畔を訪ね、また一八四八年革命の指導者コシュートをわざわざ亡命先のトリノに訪ねている。私の義理の祖父が遺した書籍中にも英国「ボーンズ・スタンダード・ライブラリー」叢書があり、その一書『ハンガリーとその革命』には、『佳人之奇遇』刊行前の明治十八年五月読了とある。岩倉や散士だけではなく、当時の青年学徒がヨーロッパの「小国」も含めた、「スタンダード」なヨーロッパ(地図)をきちんと学ぼうとしていた証左である。
しかし明治も民権期から国権期になるにしたがい、すなわち日本が「大国」を志向するようになると、いわゆる英・独・仏・露の列強以外は、日本人のヨーロッパ認識から無視され、現実の等身大の日本とヨーロッパの全体像が歪んだ地図になった。あとはこの尺度によって、現代に至るまで「近代化」に努力してきたのである。
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ユダヤ人の抗議、日本語を話すヴェトナム学者−−歴史との遭遇
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もう一つには知識が、この与えられた「近代化」の、目標値達成のための技術マニュアル化し、物を見る眼、現実への好奇心はかえって余計なものとして排除されてきたこともある。だから、例えば歴史が生きて連続し、眼前に現存しているのに私たちは気づかない。
留学当初、ある映画を観て映画館から出たところで老婆に呼び止められ、抗議されたことがある。何ごとか分からず笑ってごまかしていたら、腕をまくって私の前に突きだした。そこに七、八桁の数字が刻まれている。突如、眼の前に歴史が生きて出現したのである。ユダヤ人はハンガリーには推定八万、殆どはブダペシュトに住む(ちなみにヨーロッパ全土に約二八〇万人、米国の約六〇〇万とイスラエルの四五〇万を加えても、世界で千数百万人。世界に住むハンガリー人一五〇〇万よりやや少ない)。ハンガリーでも大戦中、約六〇万がナチスの犠牲になっている。それを百も承知しながら、鉤十字の戦車に槍で立ち向かうドンキ・ホーテ的ポーランド槍騎兵に不用意に笑い−−老婆が隣で泣いていたにもかかわらず−−強制収用所を生き延びた人の存在が見えなかったのである。
もっと驚いたこともある。研究所の帰りのバスで、いつも後から乗車する私に会釈する東洋人がいた。ある日、下車した私の後からついてきて、「今日は」と声をかけてきた。やっぱり日本人かとうんざりしていると、少々発音が変である。そのうちハンガリー語でヴェトナムの生化学者だと名乗った。当時、多数の若いヴェトナム学生が戦火を避けて同じ社会主義のこの国に留学しており、街では一般のハンガリー人とさえ付き合わないよう集団行動をとっていたが、彼は珍しく私と同年配のおっとりした学者であった。そこで下宿に誘い談笑するうちに、日本語は戦時中、日本軍が村で宣伝用によく映画会を行い、自分は子どもなので入れてもらえず、天幕の外から声だけいつも聞いているうちに覚えたのだという。それにしても卵とか鶏とか変な言葉を知っているので尋ねると、日本軍が村で食糧徴発の際、「タマゴ、タマゴ!」と叫んだのが耳についているからだという。そして最後にポツリと付け加えた。ある日、卵がないといった両親は銃剣に刺されて死にました。
これには凝然として声も出なかった。彼は私を気遣ってか、すぐ話題を転じて故国で小学校の教師をしているという奥さんの写真を取り出し、見せてくれた。ただ戦争が心配だと言って。その後親交を重ねたが、サイゴンが陥落して数日後、ヴェトナムの壁掛け用花瓶を私にプレゼントして帰国していった。ここでも、歴史が生きて、しかもヴェトナム戦争とつながって私の前に出現したのである。それにしても戦時中の日本軍の仏印進駐を知っている以上、私と同年配で片言の日本語を話す北ヴェトナム人とあれば、すぐに気づくべきであった。学生にもよく話すことだが、日本国内ても同じような現実が身近にごろごろしているが、見る眼がないため気づかないだけである。
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礼儀にも要る知的基礎体力
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一度、ブダペシュトの女子高専生に頼まれて、日本についての講演をしたことがある。シャンデリアの輝く、絨毯の敷き詰められた豪華な校内ホールで、百五十人ほどの学生が私の拙いハンガリー語の話を熱心に聞いてくれた。講演のあと質問を受けたが、源氏物語から阿部公房や丹下健三まで、ハイテクから成田空港問題まで多彩にわたり、往生した。講演を依頼にきた女子学生に、みなよく知っているのに驚いたと話すと、もちろん日本への関心が高いからだが、講演の前に調べたのでしょう、講演を聞く以上、それが礼儀だし当然ですと、こともなげであった。なるほど、いろいろな人のホームパーティに招かれたが、必ずゲストが話題に窮しないように、前以て日本の小説などを読んできている。いきなり「夢の浮橋」の話をされて私のほうが分からず、妻が源氏の話だと気づいてくれて恥をかかずにすんだこともある。倉橋由美子の同名の小説を読んでいたのである。相手が文系ではなく、大学出とはいえエンジニアだっただけに、よけい見当がつかなかった。
要するに何も日本人ということだけではなく、どこの国の人であろうと、あるいは同国人でも専門の人がゲストであれば、そうするようである。これが日常的となると、結構しんどいと思う。かなりの知的好奇心と知的基礎体力が要求されるからである。ちなみに、この国でも他のヨーロッパ諸国と同様、勤務時間後は会社や研究所の職場同僚と飲みに行くことはまずなく、職場とは無関係な、しかし同じ階層、同じ知的レヴェルの友人サークルが曜日を決めて集まることが多く(ハンガリーでは持ち寄った葡萄酒とオープンサンドぐらいの簡単なホームパーティ)、もっぱら談論の場である。例えば教授、牧師、エンジニア、歌手、会社員といった具合である。こうした談論は知的情報の交換の場、批評の場であり、うっかり愚論・凡論を言おうものなら二度とお呼びではない。もちろん普通の労働者層は、こんなしんどいことはしない。しかし高専・大学出となると話は異なる。そしてそれに要する知的基礎体力は、伝統的にギムナジウムや高専で身につけている。
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日本語を学びにきたユダヤ少年
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ところで、日本に対する関心はわれわれが思うより遥かに高い。日本関係の書籍はすぐに売り切れ、日本映画はつねに満員になる(黒沢作品はもちろん、新藤兼人の『裸の島』はハンガリーの芸術界に絶大な影響を与えた)。もともと民族起源の研究に端を発して古くから東洋学が盛んだが、ハンガリー語と日本語は親縁(ウラル=アルタイ語)とされたこともあり(今はウラル語とアルタイ語は別の範疇)、戦前から親日的であった。ただ戦争で日本学者が絶え、ブダペシュト大学に日本語講座が細々とある程度であった(現在は女性日本学者が校長になっている高専もある)。
ある日いきなり、見知らぬ少年が私の下宿を訪ねてきた。日本語を勉強したいので週に二度教えてくれないかという。小学校四年生ぐらいの男児である。一体どこで私の名と家を知ったのかと訊くと、日本大使館で自宅に最も近い日本人を教えてもらったという。親が調べたのかと思いきや、自分独りで大使館に行き、その足でここに来たらしい。これにはいささか驚いた。知らない外国の大使館に行くのは、ヴィザの申請でもない限り大人だって気がひける。しかも真剣に言うのだ。やがて世界の主流になる日本の工業技術を知るには、日本語と日本文化を学ぶ必要があると思ったからです。英語のほうが先ではと言ったら(当時は中学からロシア語が第一外国語)、四年前から英語はやっており、今はドイツ語もやってますときた。おいおい、こっちだって苦労しているのに。
結局、その熱意に負けて親とも話し、留学期限があと半年なので、そのあいだ週一回、無料で教えることになった。授業料代わりに夏の終わり、八月末にはバラトン湖畔の別荘が空いてるので自由に滞在してくれという。父親は労働組合関係の新聞に勤めており、話から一家がユダヤ系であることが分かって納得がいった(ちなみに一家の別荘は夏のシーズンはオーストリア人やイタリア人観光客に貸しており、それが去った後、私たち夫婦に授業料代わりにただ貸しするのは、彼らにしてみれば一石二鳥で、いかにもユダヤ人らしい)。
今はやりの、日本の教育ママによる早期教育とは全く違う。いかに日本への関心が高いとはいえ、日本語がブームでもない以上、自分で情報を先読みし、自分で情報を獲得したのである。もちろん、普通こんな例は余りない。ただしユダヤ系となると、必ずしも特例ではない。彼らは情報をモノより重視し、おおげさに言えば情報の収集と組織化に命をかけているところがあるからである。余談だが、いま問題になっている国際投資家のジョージ・ソロスも、あるいはコンピュータのインテルの社長もハンガリー系ユダヤ人である。この少年に彼らの原点を見たような気がする。
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「お早うございます」の一斉挨拶に恐怖を覚える
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それにしても、このような子どもの自立性にも、親の態度にも驚いた。かねがね幼稚園や小学校低学年の子どもが通学するとき、親や祖父母がついて行き、時にソフトクリームを買ってもらい、談笑しながら帰る姿をよく見かけて、微笑ましいと思う半面、無理にでも子どもを学校へ送り出す日本の方が案外、子どもの自立を促しているのではないかと思っていたからである。ところが夜、一緒にお祈りしたりするが、必ず別室で寝かせ、親と寝ることはない。また許しがない限り、大人の議論に子どもは口を挟まない(その代わり、いったん意見を訊くと、自分の全知識を動員して憎らしいほど滔々と喋る)。自立化の躾がこういうところに見られるとすれば、日本の通学の場合、実は子どもの自立ではなく、「友達」と行かせる子どもの集団化強制ではないかと考えられる。
というのも、次のような光景に気づいたからである。日本では朝、先生が「お早うございます」というと、子どもたちが一斉に大きな声で「お早うございます」と答える。そして「もっと大きな声で!」と先生。再び一斉に大声で挨拶する。幼稚園でもよく見かける光景である。こういうことは、ハンガリーでは見たこともない。それぞれ、先生に親や隣人に言うように親しみをこめて普通の声で、それぞれ「チョーコロン!」(キスをしますの意)と挨拶する。のち帰国して、たまたまハンガリー人と幼稚園のそばを歩いていたら、この一斉挨拶の光景にぶつかり、彼女は仰天したのである。知人のベルギー人神父の先生も、日本のさる私立高校で最初の授業のとき、詰め襟の制服学生が起立して一斉にこの「お早うございます」をやったのにやはり仰天し、恐怖を感じたというから、ヨーロッパでは軍隊(あるいはナチス)でもない限りこんなことはしないようである。
これは単なる風俗の違いではなかろう。親がついてる、ついていないと、自立か自立ではないかは全く無関係なのである。大声をだすことと心から挨拶することとが無関係なのと同じである。とすれば日本の場合、むしろ個人の自立ではなく、個人を集団化する手続きであろう。そこには集団的に揃っているほうが、美的かつ効率的だという感覚も働いている。
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知識のマニュアル化−−社会主義と日本資本主義のアナロジー
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ドナウ河畔から見たとき、この効率感覚は私には先に触れた明治以来の、与えられた尺度による目標値達成のための、知識のマニュアル化(集団的水準化)に根差しているような気がする。かつて留学中のある日本の新進経済学者とドナウの畔で喧嘩したことがある。単純化すれば、この国の研究者は自宅に帰ると小説を読んだり、音楽会に行ったり、前述のように自分の専門と関係ない人と談論する。四六時中、専門研究に没頭するわれわれにとって信じがたい。だから彼らは「ヨーロッパ病」といわれるように遅れたのだという。いや、少なくとも私が逆立ちしても太刀打ちできないほど視野が広いと反論すると、確かに個人の視野は広いが、個別の高さは日本のほうが今や高く、そうした専門家が揃えば、社会の総体としても彼らより高く分厚くなる。現に、日本の経済・技術がヨーロッパを凌いでいるではないか。これに対し、いくら専門性が高くても視野の狭い個人がある権力的立場に就いたら、危険なのではないか。それに高い高いというが、それはある物差しによるもので、物差しが変われば総崩れになる危険性がある、というのが私の立場であった。
この喧嘩から二十年後、同じドナウ河畔に立ったとき、ふと思ったのである。彼の指摘はスターリン時代の知識人批判と酷似している。いや、崩壊した社会主義は、明治中期以来の日本国家がとった資本主義ないし「近代(工業)化」路線と全く同じパターンではないか。与えられた尺度による効率的な知識のマニュアル化(ノルマ達成のための知識)、尺度自体への思考停止(ブルジョワ批判)、(党)官僚の無謬性、個人の集団化(「人間の顔」の否定)、産業目標達成のための犠牲容認(環境破壊)、民族問題の隠蔽。両者は尺度と手段が違うとされるが、結果として先進工業社会の西欧に、遅れた国がいかに効率的に早く追いつき追い超すかという「もの造り」至上主義にいたっている。その歪みはハンガリーでは五六年に爆発し、その後、徐々にに知識人の知的復権(彼が不要とした知的談論や個人の広い視野と知的好奇心)が進行し、八九年という別の尺度を準備した。多くの友人サークルにおいて私が談論した人で、八九年の準備をした者は多い。こうしたこともあって、ハンガリーは「八九年」に旧東欧諸国のなかで最もソフトにランディングし、総崩れだけは避け得た。チェコ、ポーランドも似ている。その点でソ連やルーマニアは総崩れになった。
かつてハンガリーのある詩人から敗戦の一九四五年から共産党の一党独裁が成立する四八年までは、貧しかったが自由で明るかったと聞いたとき、敗戦後二・一スト禁止までは貧しかったが自由だったと語る小松左京の短編を思い出した。あの自由は決してモノではなく、それまでの尺度からの解放であった。だが間もなく明治以来の「もの造り」至上主義の尺度だけが蘇り、またみごとな成果を挙げたことで奇跡の復興を遂げ、ヨーロッパを追い超したとき、世界の尺度が変わっていたのである。これも、ウォーラスティンのいう十六世紀の西欧に始まった「近代世界システム」が、バトルゲームのなかで常に「勝ちゲーム」のグローバル・スタンダード(例えば情報や環境のソフト)を生みだすなかで、日本が古い西欧「大国」の歪んだ地図を抱き続けてきた結果であろう。
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