高専実践事例集V
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1998/12/20発行

   


  
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  5. 解説最新情報

 

 ●島原巡検記(230〜237P)

  火砕流のつめあと                藤枝孝善   沼津工業高等専門学校教授

     
   まず展示館を見て驚く
 
   

 平成10年1月5日、6日の二日間、島原へ巡検に出かけた。現在、静岡県の埋蔵文化財の担当指導主事をしている小早川隆氏と一緒である。彼とはこの十年来の研究仲間で、雲仙普賢岳の火砕流流出以来、いつかホンモノの火砕流を見に行こうと約束していたからである。普賢岳の活動が沈静化した今になって、やっと火砕流と土石流堆積物を観察する機会を得た。
 正月明けの五日の早朝、三島を発った。新幹線を乗り継ぎ、博多に着いたのが昼過ぎ。博多から特急で諌早へ向かった。肥前山口を過ぎた辺りから有明海を隔てて雲仙の雄姿が見えて来た。中腹の傾斜変換線から下のスロープはよく見えたが山頂付近には厚い雲がかかっていた。三時ごろ諌早に到着。島原鉄道で島原駅までは一時間半もかかる。意外と大きな半島である。
 徒歩で島原城へ。なかなかの城である。立派な堀をめぐらし、天守閣もある。大手門のだらだら坂を登って城内へ。背後に眉山がそびえ、前面が海。空はどんぐもり。まず、売店で普賢岳噴火の絵葉書を買って観光復興記念館へ入った。館内には火砕流災害の特別展示がいっぱい。二階から入るようになっている建物の二階のフロアの中央に大きなガラスケースに入った地図模型があり、壁際に写真パネルや噴出物が展示してある。熱風で溶けたガラス瓶やガードレールの一部も見られた。一階へ降りると映写室があり、そこでビデオを見た。閉館間際だったが収穫だった。
 外へ出ると、二百年前の噴火で崩壊した眉山が城門の正面に見える。眉山は普賢岳の前山である。
 ちょうど空のタクシーがいたので宿まで頼んだ。運転手は福島正志という若い方である。

 

   土石流に埋まった家々
   

 翌朝8時半、チェックアウトを済ませるとタクシーが待っていた。昨日の第一交通の福島さんを指名したのだが別の運転手が来た。福島正吾さんという中年の方である。何と一字違いの別人であった。このことが後で幸した。福島さん宅は火砕流から免れた中木場地区の上限にあった。案内役としてはもってこいの方である。
 八時半に宿を出た。宿は、二百年前の眉山崩壊によってできた流山の小高い丘の上に建っていた。南島原の踏切を渡ると、車は海岸沿いを走る。噴火後、島原鉄道はこの南島原から折り返していた。土石流に線路が埋まったからである。復旧したのは半年前という。復旧に時間がかかったのは難工事だったからではない。人手が足りないのである。現在、進められている水無川の改修や上木場地区の改修現場でも、重機は結構入っているが働いている人影は少ない。
 宿から十分ほどで水無川の下流に着いた。右岸に安中地区の家屋が二階まで埋まったままになっている。この地域は、元の地表面が八メートルも土石流を被ったのである。しかし、ちょっと外れた所では土石流を免れて何もなかったような生活を送っている。以前は右へカーブするように流れていた河道は真っすぐに改修され、五メートルも掘りさげられている。

 

   熱風に吹き抜けられた小学校
   

 タクシーは水無川右岸の扇状地の坂道を登っていく。道の両側には円礫の石垣で雛壇状に区切られたさほど広くない畑が展開する。火山灰を被ったとされる畑には、シャベルカーが入って構造改善事業が進められている。そしてその合間に、燃えて廃屋となった家屋の残骸や鉄骨だけとなったビニルハウスが点在する。痛ましい光景である。
 とくに、深江町立大野木場小学校の場合はひどい。西が三階建てで東が二階建ての鉄筋コンクリートの校舎は、火砕サージの熱風を受けて、床と柱部分を残して窓枠が全部吹き飛んでいる。だたし、三階建て部分の一階と二階は、火砕サージの風上側が壁になっているために窓枠は完全に残った。だが、両方に窓のある二階建て部分の方は、完全に焼け焦げて、窓枠も吹き飛んでいる。
 小学校の上手に、無傷で残っている白い壁の民家がある。「この民家は木立に囲まれていたために熱風による焼失を免れました」と福島さんは説明する。中木場地区にある福島さんの家も屋敷森に囲まれていたので助かったと言う。
 火砕サージの威力はすごいものがある。大野木場小学校の場合もそうであるが、林地の被害はひどい。スギやヒノキのような針葉樹の人工林は、みな熱風の風下側に傾き、あるいはなぎ倒され、そして焼けて枯れている。ただ、楠のような広葉樹の大木は、一度は葉を落としたものの、今では芽を吹き返し、葉をつけてたくましく立っている。火砕サージに襲われた山麓の林地は、広範囲に立ち枯れしていて、熱風の通り抜けた筋道がとてもよく分かる。

 

   土石流の走った河原
   

 道路が途切れているところで福島さんは車を止めた。水無川中流の土石流の露頭が眼前に広がる。ここまでは復旧工事が及んでいない。いわば土石流流出後そのままの光景である。堆積物の厚さは10メートルはあるようだ。それが侵蝕で五メートルほど掘り下げられている。火山灰の中に不揃いの礫がつまっていて、大きな岩塊が川岸の表面に載っている。川幅は40メートル。水の流れていない河原は、数十センチ〜1メートル大の礫で埋め尽くされ、歩行には不自由する。大礫の幾つかには、黄色いペンキが塗られていて、礫の移動を把握しやすくしてある。
 上流へ目をやると、土石流は赤松谷の方から流出して来ている。膨大な土砂が流出している。その先には、曇り空ともやの中に褐色の山肌をした普賢岳の斜面が見える。頂上は見えない。
 車は水無川右岸の坂道を国道まで下って、スーパー第一ダム工事現場へきた。年老いた作業員がくわえタバコをしたまま車の誘導をしている。のんびりしたものである。ダンプカーが出入りし、重機は動いているが、人影は少ない。展望台用の丘が作ってあって、その上に百円玉を入れてみる望遠鏡が二器据えてある。普賢岳の中腹から下の部分しか見えない。
 門内というバス停のある分岐点から車は狭い曲がりくねった道を北上木場へ上って行く。「罹災家屋は二千棟、うち火砕流で焼失したのは700棟です」と福島さんが運転しながら解説する。
 北上木場の第二ダムへ着いた。遠く真南に標高170メートルに廃墟となった大野木場小学校が立っている。第二ダムの位置は水無川の中流のあたりであるが、ダムの内側で大型パワーシャベルがせわしげに河床を整備している。ダムの高さは内側で10メートル、外側で15メートルを超えている。今後の土石流はここで吸収することができそうである。
 ダムの外側から下流は工事が完成に近づいていて、傾斜のある河道は、低い砂防堰によってひな壇状に整備され、川岸は高さ十メートルの頑丈な導流堤で固められている。万一、二つのダムを乗り越えるほどの土石流が起こっても下流部の集落に被害が及ぶようなことは当分起こりそうにない。

 

   火砕流堆積物をかいま見る
   

 建設省の工事事務所から先は工事車両以外は立ち入り禁止になっている。プレハブの事務所の側に監視カメラが備え付けられ、中継車が止めてある。コンクリートのシェルターもある。事務所から500メートルほど上手にある自家発電式監視カメラは、終日発動機の音をたてている。
 火砕流の痕跡を求めて大きな礫の積み重なった河原を上流へ向かった。南上木場集落のあった場所が河原になっている。寸断された舗装道路やへり曲がったガードレール、人家の石垣、土砂を被った農地がところどころ顔を出している。「北上木場、南上木場、両地区合わせて120軒が全滅しました。ガスを吸って死んだ人、熱風でやけどした人、報道関係者、消防士、運転手など、ほとんど即死でした」と福島さんは同僚の運転手の死を思いうかべながら語る。彼の家が残った家でいちばん上になり、その上手にあった一二〇軒は全滅したのである。すごいことが起こったのだ。
 やっと、降下火山灰の露頭を見つけた。これが火砕流堆積物であろうか。礫層の間に30センチと50センチの上下2層の風成層が挟まっている。この露頭は、ちょうど比高5メートルの少し突き出た石垣の陰になっていたために、土石流による侵蝕を免れたのであろう。幸運だった。
 本格的な火砕流堆積物は、赤松谷の方にいかなけれけば見ることはできないのであるが、足元の悪い河原を歩いてそこまで行くには時間がなかった。念願の火砕流堆積物を見つけたことでもあるので引き上げることにした。

 

 罹災者の移転先
 再び車に乗って坂道を下った。その途中、「一休みしましょう」と親切にも福島さんは自宅へ車を乗りつけ、お茶とまんじゅうをふるまってくれた。「普賢岳は平成2年より活動を始め、平成3年5月より熔岩を噴出しました。家の周りには灰が20センチも積もり、ネバネバした灰は車や庭木にくっついて水をかけてもなかなか汚れがとれなかた」と、当時を思い出して語り、熔岩ドームの崩落後集めてきたまんじゅうのようにふくらんだデイサイト熔岩を見せてくれた。熱っぽく語る福島さんの説明ぶりは、運転手とお客といういきをこえていた。時刻は11時を回っていた。
 島原駅へ向かう途中で、罹災者の移転先である仁田団地へ立ち寄った。この団地は、中木場地区の北側、眉山の右前面のスロープにあり、200年前の崩壊した斜面上に位置する。150区画の宅地に新築家屋が建ち始めている。50〜60坪ぐらいの敷地には、立派な本建築の家屋が次々に建っていて、道の狭い中木場地区の古い家並みとは対照的である。
 団地に移転した人たちは、火砕流で全滅した北上木場と南木場地区の人で、元の家の敷地と田畑すべてを買い上げられ、団地の土地は買い上げ値で入手したものである。買い上げ交渉の滞った人は、まだ市営の仮説住宅に入っている。
 災害に合うと、若干の援助は受けられるものの、最後は自力で生活の再建を図らねばならない。だれも助けてはくれない。厳しいものである。福島さんも、「一歩間違えば、自分もすべてを失っていたかもしれない」と、自分の家が火砕流の熱風を免れた幸運を心からかみしめていた。火砕流の怖さを見てきた今回の雲仙普賢岳の火砕流は、マグマがゆっくり時間をかけて押し出してできた粘性の強い熔岩ドームが、膨張して崩落して発生したものである。熔岩の塊の破裂とともに生じる数百度の熱風の威力は、北上木場・南上木場の壊滅、廃墟となった大野木場小学校の例を見ても分かる。平成3年6月の大火砕流の時には、この熱風の中に人や家畜がいたという。まことに痛ましいことである。フィリピンのピナツボ火山の火砕流は、深さ十キロのところからわずか一昼夜で上昇したマグマが、一気に噴出して起こったもので、その威力は島原の場合をはるかにしのいでいる。
 普賢岳の火砕流は、熱風とともに大量の火山灰を降下させた。この火山灰で農作物は壊滅した。ピナツボの噴火では米軍基地が使用不能になってしまった。
 火砕流の次に襲い来るのが土石流である。火山砕屑物の多くは不安定な山腹に残される。梅雨の断続的な豪雨がこれらを洗い流し、秒速数十メートルの鉄砲水となって岩塊を押し流し、河床を埋めつくし、河から溢れて農地や家々までも埋めてしまう。その跡をこの目で見ることができた。
 高くついた巡検、あっと言う間の二日間であったが、新幹線を乗り継いでも、島原は遠かった。資料を集め、予備知識をもって臨んだ巡検ではあったが、災害を目撃した人の証言には及ばない。大収穫であった。島原第一交通タクシーの運転手、福島さんにとても感謝している。

   
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