高専実践事例集V |
工藤圭章編 高等専門学校授業研究会 1998/12/20発行 |
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T 感動させます
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●島原巡検記(230〜237P) 火砕流のつめあと 藤枝孝善 沼津工業高等専門学校教授 |
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まず展示館を見て驚く |
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平成10年1月5日、6日の二日間、島原へ巡検に出かけた。現在、静岡県の埋蔵文化財の担当指導主事をしている小早川隆氏と一緒である。彼とはこの十年来の研究仲間で、雲仙普賢岳の火砕流流出以来、いつかホンモノの火砕流を見に行こうと約束していたからである。普賢岳の活動が沈静化した今になって、やっと火砕流と土石流堆積物を観察する機会を得た。
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土石流に埋まった家々 |
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翌朝8時半、チェックアウトを済ませるとタクシーが待っていた。昨日の第一交通の福島さんを指名したのだが別の運転手が来た。福島正吾さんという中年の方である。何と一字違いの別人であった。このことが後で幸した。福島さん宅は火砕流から免れた中木場地区の上限にあった。案内役としてはもってこいの方である。
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熱風に吹き抜けられた小学校 |
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タクシーは水無川右岸の扇状地の坂道を登っていく。道の両側には円礫の石垣で雛壇状に区切られたさほど広くない畑が展開する。火山灰を被ったとされる畑には、シャベルカーが入って構造改善事業が進められている。そしてその合間に、燃えて廃屋となった家屋の残骸や鉄骨だけとなったビニルハウスが点在する。痛ましい光景である。
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土石流の走った河原 | |||||
道路が途切れているところで福島さんは車を止めた。水無川中流の土石流の露頭が眼前に広がる。ここまでは復旧工事が及んでいない。いわば土石流流出後そのままの光景である。堆積物の厚さは10メートルはあるようだ。それが侵蝕で五メートルほど掘り下げられている。火山灰の中に不揃いの礫がつまっていて、大きな岩塊が川岸の表面に載っている。川幅は40メートル。水の流れていない河原は、数十センチ〜1メートル大の礫で埋め尽くされ、歩行には不自由する。大礫の幾つかには、黄色いペンキが塗られていて、礫の移動を把握しやすくしてある。
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火砕流堆積物をかいま見る |
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建設省の工事事務所から先は工事車両以外は立ち入り禁止になっている。プレハブの事務所の側に監視カメラが備え付けられ、中継車が止めてある。コンクリートのシェルターもある。事務所から500メートルほど上手にある自家発電式監視カメラは、終日発動機の音をたてている。
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罹災者の移転先 |
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再び車に乗って坂道を下った。その途中、「一休みしましょう」と親切にも福島さんは自宅へ車を乗りつけ、お茶とまんじゅうをふるまってくれた。「普賢岳は平成2年より活動を始め、平成3年5月より熔岩を噴出しました。家の周りには灰が20センチも積もり、ネバネバした灰は車や庭木にくっついて水をかけてもなかなか汚れがとれなかた」と、当時を思い出して語り、熔岩ドームの崩落後集めてきたまんじゅうのようにふくらんだデイサイト熔岩を見せてくれた。熱っぽく語る福島さんの説明ぶりは、運転手とお客といういきをこえていた。時刻は11時を回っていた。 島原駅へ向かう途中で、罹災者の移転先である仁田団地へ立ち寄った。この団地は、中木場地区の北側、眉山の右前面のスロープにあり、200年前の崩壊した斜面上に位置する。150区画の宅地に新築家屋が建ち始めている。50〜60坪ぐらいの敷地には、立派な本建築の家屋が次々に建っていて、道の狭い中木場地区の古い家並みとは対照的である。 団地に移転した人たちは、火砕流で全滅した北上木場と南木場地区の人で、元の家の敷地と田畑すべてを買い上げられ、団地の土地は買い上げ値で入手したものである。買い上げ交渉の滞った人は、まだ市営の仮説住宅に入っている。 災害に合うと、若干の援助は受けられるものの、最後は自力で生活の再建を図らねばならない。だれも助けてはくれない。厳しいものである。福島さんも、「一歩間違えば、自分もすべてを失っていたかもしれない」と、自分の家が火砕流の熱風を免れた幸運を心からかみしめていた。火砕流の怖さを見てきた今回の雲仙普賢岳の火砕流は、マグマがゆっくり時間をかけて押し出してできた粘性の強い熔岩ドームが、膨張して崩落して発生したものである。熔岩の塊の破裂とともに生じる数百度の熱風の威力は、北上木場・南上木場の壊滅、廃墟となった大野木場小学校の例を見ても分かる。平成3年6月の大火砕流の時には、この熱風の中に人や家畜がいたという。まことに痛ましいことである。フィリピンのピナツボ火山の火砕流は、深さ十キロのところからわずか一昼夜で上昇したマグマが、一気に噴出して起こったもので、その威力は島原の場合をはるかにしのいでいる。 普賢岳の火砕流は、熱風とともに大量の火山灰を降下させた。この火山灰で農作物は壊滅した。ピナツボの噴火では米軍基地が使用不能になってしまった。 火砕流の次に襲い来るのが土石流である。火山砕屑物の多くは不安定な山腹に残される。梅雨の断続的な豪雨がこれらを洗い流し、秒速数十メートルの鉄砲水となって岩塊を押し流し、河床を埋めつくし、河から溢れて農地や家々までも埋めてしまう。その跡をこの目で見ることができた。 高くついた巡検、あっと言う間の二日間であったが、新幹線を乗り継いでも、島原は遠かった。資料を集め、予備知識をもって臨んだ巡検ではあったが、災害を目撃した人の証言には及ばない。大収穫であった。島原第一交通タクシーの運転手、福島さんにとても感謝している。 |
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