高専実践事例集V
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1998/12/20発行

   


  
こんな授業をやってます

   
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  4. 教科教育への提言

 

 ●外国語学習の基礎(210〜227P)

  新時代のための教育原理         中村博雄   長野工業高等専門学校助教授

     
   言葉は生活の一部のはず
 
   

 外国の人と自由に話ができたり、おつきあいができたらどんなに楽しいだろうと思いながらも、外国語が苦手だから…とあきらめている人が多いようです。中学時代から何年も英語を勉強してきているのに、自由に使えないことは残念なとです。今から六〇年以上も前に、F.J.Daniels というイギリス人の先生によって “Basic English”というのが公表され、英和辞典にもなって、これは今でも使われていますが(北星堂書店『英文を書くための辞書』)、この Basic Englishの数は約1,000語。これだけで、日常生活のほとんどすべてのことが自由に表現できるのです。中学校の英語だけで十分なのです。先生方はあんなにも一生懸命教えて下さり、生徒諸君もあんなにも必死になって勉強しているというのに、どうして使えないのでしょう、通じないのでしょう…。
 英語に限らず、外国語を学ぶについては、どうも私たちには初めから「これは勉強なんだ、遊 びじゃないんだ」といった何か構えた姿勢があって、根本のところにある大切な「何か」を見落としているように思えてなりません。「根本のところにあるもの」、それは、「そもそも言葉とはどういうものか」、そして「言葉を使うということ、あるいは言葉が通じるということはどういうことか」という言葉の本質に対する理解です。全員が同時通訳者になる必要はないのです。何千もの単語を暗記したり、文法の試験でいい点をとる抜群の記憶力を持っていなくても悲観する必要はないのです。
 「ある程度」以上の高度な語学力はそれぞれの専門家に任せればいい。そのために専門家がいるのですし、なまじ自分を過信して大失敗をしないためにも、複雑な内容のことは、それが大事な用件であればあるほど第三者の専門家を介した方が無難です。では、この「ある程度」とはどこに線引きがあるのか。これが問題です。その線は、「生活」ではないでしょうか。言葉とはそもそも生活の中で使われているものであり、日常の生活に密着したものであるはずだからです。言葉は、生活の中での意志伝達や相互理解のひとつの手段にすぎないものなのです。とすれば、生活の中では「生活する」という総合的な能力が必要であるように、言葉を使うということにも総合的能力が必要なはずです。人間は頭(知性)だけで生きているだけではありません。判断力や感受性や情緒や…、あらゆるものを総合して、足りないものは補って生活しているはずです。なのに、「外国語学習」ということになるととたんに暗記力と思考力のほんの一部の能力だけが問題にされて、「できる」とか「できない」とかといって判定されてしまいます。IQではなくてEQが評価の要素になってもいいはずなのに、何かおかしいとは思いませんか? イギリスでは政治家も失業中のおじさんもみんな英語をしゃべり、ドイツでは医者も屋台のおばさんもみんなドイツ語をしゃべっているというのに…。失業中のおじさんも屋台のおばさんもみんな「いい人」なのに…。
 「言葉は生活における相互理解のひとつの手段にすぎない」「その背後にはとても大切な『あるもの』がある」という肝心かなめのポイントを見逃して、いくら単語や文法の暗記をしても、それらを「使える」はずはありません。では、「通じる言葉」を使うコツとは何なのでしょう。相手は同じ地球人です。文化の違いはあっても、同じ人間です。人間には、国民性を越えて「わかりあえる何か」があるはずです。同じ国の人どうしでもお互いに理解しあえず、争いあっているということがあるかと思うと、反面、国語も文化も違う留学生どうしで結婚して幸せな家庭を持っているカップルもいるという現実があるのですから。人類の歴史は、誤解による悲惨な戦争の歴史のように見えますが、それは見方によっては「違うものどうしの理解の歴史」でもあるのです。「悲惨さ」だけで人間を捕らえるには、これまでの人間の歴史にはあまりに例外が多すぎます。人間の反省する力、他者を思いやる優しさ、これらはすてたものではありません。少し話が飛躍しすぎました。要するに、人と人の間を繋いでいるものは「言葉の数」や「言い回しの巧みさ」だけではないのです。ペラペラしゃべる悪人と無口な善人とどっちが信用できると思いますか? どっちの人とつきあってみたいと思いますか?

 

   「言葉が通じる」とはどういうことか
   

  海外旅行をしたことのある人なら、身振り・手振りでも十分やっていけるという経験があるのではないでしょうか。そして、その身振り・手振りの上に、「ツボを得た言葉をいくつか使えたら意志疎通がもっと楽になるのに、会話が楽しくなるのに」と思ったことはないでしょうか? 実は、これがポイントなのです。そして、ちゃんとこの「ツボ」はあるのです! もちろん、このツボトイウノハ、経験の積み重ねによってだんだんつかめるようになっていくものです。確かに経験の積み重ねは大切です。しかし、実はこの「経験」の背後にとても重要な「前提」というか「下地」があるのです。それをしっかり固めておけば、通じる言葉を使うコツが簡単につかめるようになるという「下地」があるのです。それがしっかりできてさえいれば、中学校で習ったBasic English までもが海外旅行や出張先で強力な武器となって、楽しい旅行や有意義な仕事を実現させてくれるのです。そしてまた、ドイツ語だって、フランス語だって、中国語だって…、第二、第三、第四外国語を勉強していくことだってもっと簡単に、楽しくやれるようになるのです。言葉を発する時、その言葉が相手に届く(理解される)というのはどういうことか改めて考えたことがありますでしょうか? そこには、ちょっとした「ヒミツ」があるのです。実は、「言葉」というものは「単なる音(物理的な音)」ではなく、それは「意味」を持ったものであり、その意味にはそれを発した人の「思い」がこめられており、この思いにはその人の「人柄」のすべてが現れているものなのです。例えば、ごく簡単な例で、「こんにちは」と言ったとします。

 次の図?を見て下さい。

 ここで説明をわかりやすくするために「こんにちは」という言葉の物理的音波をwと表します。あなたがある人に向かって「こんにちは」と発したwは、あなたの口を出た瞬間に、単なる音としての“KONNICHIWA”ではなくて、そこには「お元気そうで何よりです」とか「どうかよい一日でありますように」とかいった相手に対する思いやりの「気持ち」をh持ったもの、つまりh[w]として相手に飛んでいっているのです。ところで、このh[w]を受けとる側の方はどうでしょうか。
 今度は図?を見て下さい。相手は音としての言葉wだけを受けとっているわけではなく、やはり同じような「思い」を一緒に受けとっているはずです。お互いに相手に対する「思いやり」が大きければ大きい程、相手の言葉は受けとりやすい、つまり理解しやすいということになります(図?の斜線の部分)。「こんにちは」はwと言っているその人の人柄・人間性が貧弱だとhのふくらみが小さいので、小さなh[w]の固まりは、飛んではいきますが、相手のhと触れあう確率は小さくなる、というわけです。ここで、このhのふくらみを「人間性」と呼ぶことにしましょう。つまり、人間性の豊かな人の口から出る言葉は相手に伝わりやすい、ということです。「人間性が豊か」とはどういうことかと言えば、簡単に言えば、それは、その人が「いい人かどどうか」ということです。そして、「いい人かどうか」とは、相手が、あるいは周りの人が「その人と一緒にいたい気持ちになるかどうか」ということです。「相手が一緒にいたい気持ちになるかどうか」、ここがポイントなのです。
 不思議なもので、この「人間性」というのは、顔をあわせた瞬間に、即座に相手に見抜かれます。それはちょうど、教師が新しいクラスの教壇に初めて立ったその瞬間にその実力を生徒たちに即座に見抜かれるのと似ています。人間性の豊かな人の口から出る言葉には相手を引きつけるものがあります。受けとる相手の側も、両手を広げてしっかりそれを受けとめようとする用意があるので、お互いに理解が容易なのです。人間性が貧弱な人は、いくら言葉をたくさん投げても、相手に届きません。豆粒が飛んでくるのを受けるのとバレーボールがくるのを受けるのとどっちが簡単だと思いますか?
 本来は、誰でもみんな生まれつき「いい人」のはずです。生い立ちや過去の経験や様々な要因が人間性を曇らせてしまっているだけだとすれば、ここにこそ「教育」の存在意義があるのではないでしょうが。外国語習得の大前提は人間形成なのです。それにしても、「人間形成」とはいったい何でしょうか? それは、「あらゆる他者の立場に立って考えることのできる力をつけること」ではないでしょうか。つまり、「他者の存在を尊重できる開かれた精神を育てる」ということです。自分がものを言う時、その立場、時期、内容、言い方、相手の気持ち…、こういったことをわきまえて発言することができるようになるということです。外国では、不用意に相手の人格や生活に踏み込むことは禁物です。いったい自分の存在は、今、ここで、相手にとってどういう存在なのかということをわきまえることができれば、こちら側が遠慮していても、相手の側から自然に受け入れられ、先程のバレーボールのやりとりが可能になるのです。言葉は単なる音ではない。それは、それを発した人の全人格を担って相手に飛んでいって、受けとられているということをしっかりわきまえることが大切なのです。

 

   ダンケとビッテだけでも話はできる---実例紹介
   

 ここでおもしろい例を紹介してみましょう。極端な例ではありますが、言葉の本質を考えるのによい例ですので紹介したいと思います。ドイツ語会話は難しいように見えますが、決してそんなことはないのです。“Danke!”[ダンケ]と“Bitte!”[ビッテ]のたった二語を知っているだけで、ドイツ語会話が成り立ち、ドイツで生活できるのですから。ただしそこにはひとつ大前提が必要です。あなたが「相手に受け入れられやすい『いい人』である」という前提が! “Danke!”が「ありがとう」という意味であることは知っていますよね。“Bitte!"には二つ意味があります。英語の“Please”と“Not at all.”あるいは“That´s all right.”です。では、この“danke"と“bitte"、それに身振り・手振りを使って「バレーボール会話」のやりとりを実演してみましょう。舞台はドイツのあるレストランです。感じのいい客[これはドイツを旅行中のあなたです」がレストランに入ろうとしています。

あなた:Bitte! (食事をさせて下さい)

給 仕:Bitte! (いらっしゃい.どうぞどうぞ)

あなた:Danke!...Bitte! (ありがとうございます。[テーブルについて]メニューをお願いします)

給 仕:Bitte! (どうぞ)

あなた:Danke!...Bitte! (ありがとうございます。[少し考えて]これをお願いします)

給 仕:Danke! (かしこまりました)

・・・・・・・・・・・・・・

給 仕:Bitte! ([できたものをもってきて]どうぞ、めしあがれ)

あなた:Danke! (ありがとう)

給 仕:Bitte! (どういたしまして)

・・・・・・・・・・・・・・

あなた:Bitte! (勘定をお願いします)

給 仕:Danke! (ありがとうございます)

あなた:Danke! (ごちそうさまでした)

あなた:[別れ際に]Danke! (さようなら)

 もちろん、いつもうまくいくとは限りません。間のとり方も難しいかもしれません。相手があることですから、ウェーターやウェートレスの側の人間性や、かりにその人が「いい人」であったとしても、その時の心理状態によって情勢は微妙に違ってくることでしょう。相手が疲れていそうな時は、こちら側からそのことを思いやってあげる必要があるでしょう。右の例は極端すぎる例ではありますが、言葉の持っている「幅の広さ」とか「奥行き」といったものを考える上で参考になるのではないでしょうか。もしここに、「使える言葉」がさらに数語、数十語、100語と増えていったとすれば、会話はもっともっと楽しくなっていくはずです。そして、そのようなつきあいがさらに人間関係を深め、それを媒介にしてその国の言葉がますます上達していくことでしょう。「人間性の豊かさ」は相手に安心感を与え、相手を引きつけ、人間関係を円滑にするのです。外国語学習の基本方針が、量的な教育、例えば暗記量などに向けられるのではなく、かりに覚えている単語の数が少なくてもそれらをいかに巧みに使えるか、といった質的な点に向けられるならば、外国語の勉強はもっと楽しいものになり、生徒自身の側に「自分からもっと何かを表現しよう」「もっと先にすすみたい」といった「やる気の〃芽〃」を芽吹かせる土壌を作ることができるようになるのではないでしょうか。教育において主となるべき部分は、「育」の方ではないでしょうか? 「育てる」ために「教えて」いるのではないでしょうか。

 

   外国語学習は楽しい
   

 先程あげました Basic English はとても良い例だと思いませんか? 日常生活の中で、人間どうしが理解しあうのに単語の数は何千も何万も必要ないのです。せいぜい1,000語あれば十分なのです。難しい言葉や専門用語は、この1,000語を使って相手に尋ねればいい。しかも、この「尋ねる」ということ自体に人間関係をさらに深めるチャンスがあるのです。大切なことは、そのように「尋ねることのできる開かれた人間になれること」なのではないでしをうか? 外国語学習を「語学の勉強」として「学問」にしてしまっているところに、従来の語学学習の落とし穴があるのではないでしょうか? 言葉は生活の中のもの、それも「日常の生活」に密着したものなのです。生活の中で生活者に求められているものは総合能力です。教室で扱われるのが生活次元の生きた言葉であり、評価してもらうのが生活者としての総合能力であったとすれば、外国語学習というのはもっと楽しく、ずっと豊かで有用なものになるのではないでしょうか。しかし、それには、現在の日本の学校はあまりに条件が悪すぎます。生徒数が一クラス40人というのはあまりに多すぎます。カリキュラムの制約が多すぎます。上からの統制が強すぎます。そもそも日常生活というのはそんなギスギスしたものではないのですから、生徒(学ぶ側)はもっと自由に自分の思っていることを自分の言葉でしゃべり、思いどおりに行動していいはずです。外国語を学ぶということ自体、もともと楽しいことのはずです。なぜって、それによって自分の母国語とは違う国の言葉を自由に使えるようになり、その国の人や、その国に関係する過去・現在・未来の人たちと楽しく交流できるようになるのですから。外国には珍しいものやおもしろそうなのがいっぱいあるのですから。どんな生徒にだって、もともと好奇心旺盛な若者なのだから!
 あるところで、日本の外交官は他国の外交官に比べて「おもしろくない人間」が多いと聞いたことがあります。私は、そんなはずはないと思うのですが…。外交官試験に余興の科目を加えてはどうかという話に至っては、もう開いた口がふさがりません。外国語を学ぶということは、自分と違う人々の文化の存在を知り、違うものどうしがとうしたら理解しあえるようになるか、どうしたら違う相手の立場に立ってものが考えられるようになり、違うものと共に生きられるようになるかということを学ぶことであったはずなのに、あのように言われるエリートたちは中学校からの10年以上何をしてきたのでしょう…。エリートに求められる第一の条件は、単なる頭の良さではなく「開かれた自由な精神」ではないでしょうか?
 「言葉が通じる」というのは、音としての言葉そのものが通じているのではなく、その言葉にくっっいて投げかけられているその人の「思い」や「こころ」が、それを受けとる側の「思いやり」によって受けとってもらって「通じている」ということ、このことを踏まえた上で一度外国の人に話しかけて見て下さい。人と人とを繋ぐものは、言葉そのものではなく、言葉に託された思いと思いやりの気持ち、つまり「こころ」であるということ、このことを忘れないで、一度、自分の知っている単語だけを使って外国の人に話しかけてみて下さい。「好感のもてる『あなた』」のその語りかけは、相手に受け入れられ、相手のこころに安心感を与え、身振り・手振りがさらに強力な助けとなって、きっと楽しい会話のひとときをすごせるはずです。外国語教育の原点は、「誰からも受け入れられる人間を育てること」「相手に安心感を与えることのできる品性の土台をつくること」なのです。問題なのは、「外国語教育の中で生徒がそのような人間に『育っていく』こと」なのではないでしょうか? 学校は、先生は、あまりに「教えよう」とばかりしていませんか? 生徒諸君は、あまのに「教わろう」とばかりしていませんか? 生徒は自然に「育って行く」ものなのではないですか? 豆粒やパチンコ玉をこれでもかこれでもかと投げつけられたら痛いですよ。バレーボールだって、力いっぱい次から次から投げつけられたら痛いですよ。とても受け止められたものではありません。そんなに投げつけなくても、生徒の側ではいっぱい受け止めようと手を大きく広げて待っているというのに…。反対に、生徒の側から大きなボールを投げてきているというのに…。

 

   むすびにかえて−新時代のための教育原理
   

 以上、外国語学習という具体的な場面での教育論を述べてきましたが、最後に、これを教育全般に広げてまとめ、「むすび」にかえたいと思います。
 工学系の学校でも「〃よき技術者〃は〃よき人間〃であらねばならない」と言われ、「人間教育の重要性」が強調されています。それにしても、この〃よき人間〃とはいったいどんな人間なのでしょうか? そもそも人間とは何なんでしょうか?
 人間は機械(コンピューター)ではありません。機械は道具です。道具は、何らかの目的のための手段として使われる「物」です。しかし、人間は、「物」ではありません。何らかの目的の道具や手段になるものではありません。例えば、患者は、医者の金儲けの道具でしょうか? 医学者の研究や名誉欲の手段でしょうか? 逆に、医者は、病気を直す単なる道具でしょうか? 病院経営のための単なる歯車のひとつでしょうか? 生徒は、先生や学校の、また、先生は、生徒や学校の道具ではありません。生徒も先生も、患者も医師も、一人の「人間」としてそれぞれが「目的自体の存在」のはずです。「自分が目的自体として扱われていない」と感じた時、「自分が単なる手段としてしか利用されていない」と感じた時、生徒も先生も、患者も医師も、誰だってそこに「なんともやりきれないもの」を感じるでしょう。人間であれば、それは当然です。しかし、人間は、それを拒否することができます。人間には自由があるからです。それは、自分を越えていく「自由」です。人間は、自分の頭で考えることができますし、自分の考えや信条を貫くことができますし、何よりも、その場その場で即座に「あらゆる他者の立場に立って考える」ことのできる「開かれた柔軟な精神」を持っています。教育の歴史においては、正確さや明敏さ、あるいは誠実さやまじめさ…といったことが重視された時代や、あるいは、他人との協調性が特に要求された時代もあったでしょう。社会のために役立つ人間になれとか、個性を尊重せよとも言われてきました。国際人になることと一国の国民であることは別々のことのように思われてきました。求められる人間像が時代によって違ってくるというのも仕方ないことかもしれません。しかし、ホモ・サピエンス(homo sapiens) からホモ・コレンス(homo colens)* まで、「人」が「人」である根本は時代によってそれほど違うものとは思えません。では、あるべき人間の姿とは、特に、二〇世紀までの反省を踏まえた上で二十一世紀という新時代が求めている人間とはどんな人間なのでしょうか?
 どうやら全体主義・普遍主義の時代はとっくに、そしてすでに個人主義の時代も終わっているようです。これからの新しい時代は、個性(特殊性)も全体性(普遍性)も両方が尊重される時代のようです。つまり、個(特殊性)が全体(普遍性)の中で生き生きしているような時代、ということです。「全体のために」ということで「個」が犠牲にされたり、かといって「個性のために」ということで「全体」が犠牲にされたりしない社会が到来しようとしているようです。個性はあくまで個であって、全体にアウフヘーベンされてはならない。全体は個を飲み込んではならないのです。反面、個は全体の調和を破壊してはならないのです。個人にしても、全体にしても、いずれも他者の「手段」としてでなくあくまで「目的」として扱われねばならない。その両方にとって批判の対象、あるいは完成を求めるべき対象は、相手(他者)ではなくて自分自身なのです。そして、幸福であるべき対象は、自分ではなくて相手(他者)なのです。これとは全く逆の形、つまり「相手の完成と自分の幸福(満足)を求める」という状態がどんなものか想像してみてください。簡単に言えば「相手に厳しく自分に甘い」という状態、「相手を自分のための手段として利用する」という状態です。このようなあり方は恐ろしい状態だとは思いませんか?これまでの衝突の原因が見えてこないでしょうか? このあたりに二十一世紀が求めている「"よき人間“とは何か」の答えが見え隠れしているのではないでしょうか? そして「教育」の本質も…。「人間性豊かな『いい人』」、つまり「相手に安心感を与える人」「相手に受け入れられる人」「一緒に仕事のできる人」を育てることが、二十一世紀の学校での「人間形成」の目標ではないでしょうか?
 では、そのために必要なことは何でしょうか? 「人を育てる」とはどういうことか? この根本問題の本質は、これまでの教育界に欠けていたもの、今の教育界に欠けているものが何であるかということを反省してみればおぼろげながらその姿が見えてくるのではないでしょうか。だからといって、いままでの教育が間違っていたというのではありません。これまでの努力は二十世紀という時代の時代精神の中で、可能な限りぎりぎりの精一杯の仕事だったはずです。ですけれど、教育への熱意が強まれば強まる程、教育という仕事の本質が見えなくなってきているように思えてなりません。小鳥は、何もしないで手を広げていれば、その上にとまっておいしそうに餌をついばんでくれるのに、捕まえて食べさせようとすると逃げていってしまいます。教えようとすればするほど育たなくなる。あたかも「教育」の「教」と「育」とが水と油のように分離してしまっているかのようです。なぜでしょうか? その理由は、人間は人間によってしか教育できないからです。そして、その人間はあくまで「有限な存在」であり、その有限性の故に、ややもするとその有限性のことを、つまり「自分の力の限界」を忘れてしまうからです。そして、生徒の側に、また、先生や学校の側にも「安心感」がないからです。解決策はないのでしょうか?私は、「ある」と思います。「行き詰まったら基本に、原点に帰れ」、これは難問解決の定石です。どこかでボタンが掛け違ってしまっているとすれば、最初に戻って、あるいはちゃんと掛かっているところまで戻って掛け直す必要がある!今さら一八世紀の教育論をと笑われるかもしれませんが、私は、次の『エミール』(@mile ou de l´education, livre ?)の中のルソーの言葉に、現代の教育者や大人たちが忘れかかっている「ある大切なもの」が語られているように思えてなりません。

「子供達を教育[人間形成]するという仕事は、時間を稼ぐために
時間を無駄にすることができなければならない仕事である。」

“L′instruction des enfants est un m@tier o@ il faut savoir
perdre du temps pour en gagner."
 一見同じもののように見えて、現実には水と油のようになってしまっている「教」と「育」を繋ぐものは「時間」、つまり「待つ」という最も忍耐のいる力なのです。これからの「教育」に必要なものは、、「“育つ”のをじっと待つことのできる忍耐」ではないでしょうか? 安易に直ぐ手を出さないで“育つ”のを見守っていられる「こころの余裕、幅、奥行き、弾力性」ではないでしょうか? そして、そのために必要なものは、それを根底から支えている「人知を越えた何か大きな大きなものに任せきる覚悟」ではないでしょうか? 新たな時代精神が個人にも、そして社会にも求めているのは、この「おおらかさ」ではないでしょうか? このおおらかさでゆったりとした姿勢が、春の日だまりのように生徒を包み、安心感を与え、発芽を促すのです。これは「卵が先か、鶏が先か」の問題にも似ています。しかし、私は、こと教育に関しては、少なくとも「育てる」という点に関しては軍配ははっきりしていると思います。「待つ」こと、「任せきる」ことが先なのです(**)。

《注》
  (*)“homo colens"というのは、私が提唱している概念です。拙著『カント「判断力批判」の研究』(東海大学出版会.1995)でその基本思想を論じましたが、 一言で言えば「自己陶冶する人」、つまり「本当の人間、本当の自分になろうと努力している人間」という意味です。この概念については、次の機会に詳しく扱う予定です。

  (**)たとえ自分ひとりに待つ構えがあっても、周りが同じ意識でないとうまくいきません。革命的に「自分の意識」を変えるということは、個人がその気にさえなればそれほど難しいことではありません。しかし、「周りの意識」を変える、すなわち「社会の啓蒙」というのはたいへんなことです。これは、結局は、概念と現実のジレンマをいかに克服するかという難問でもあります。これらの問題については、別の機会に詳しく論じたいと思っています。

 

   
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