高専実践事例集V
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1998/12/20発行

   


  
こんな授業をやってます

   
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T 感動させます
  3. 悩み抜いて出口みつける

 

 ●重圧からの自己解放(170〜178P)

  もう学校をやめなくていい     藤枝孝善  沼津工業高等専門学校教授

     
 

 はじめに

 
   

 少子化、飽食の時代を迎え、親は子に十分なことをしてやれる。金をかけ、期待をかける。
 遊びや手伝いの中で知恵がつき成長していく時期に、金をかけて塾やスイミングに通わせ即効的に力をつけようとする。欲しいものは何でも買い与える。
 その一方で、親たちは一生懸命に働く。家族で過ごせる時間もつくる。父親が仕事に忙殺される家庭では、やむを得ず母親に子育てが任される。しかし、子どもには親の後ろ姿は見えない。
 最近、「むかつく」とか「切れる」といった「反抗」に自らを沈める子もいるが、「反抗期」らしい「反抗期」を経験しない子もいる。親がいろいろと環境を整えてやるからであろうか。
 しかし、そういう環境は時として子どもたちには重荷となる。彼らは結果を出せない時、苦しむ。ハードルを飛び越せなくてもがき苦しんだ末、親の予期しない「反抗」に至る。
ここでは、いわゆる普通の子たちがハードルを越えられなくなっていく例を考えてみたい。

 

   授業を休む
   

 前期の中間試験が終わって、三年生のI君が一般特論の授業に出たり出なかったりしだした。
 「午前中はいましたけど」とクラスメートが答える。「下宿で昼寝しているんだな」と思った。
 夏休みが終わってもそれは続いた。そこで彼が出て来た日に、その訳を聞いてみた。

教師 「いったい、何があったのか?」

I君 「親に学校をやめたいといったんだけど、やめさせてもらえなかった」

 サボったことを叱りつけるつもりでいたのに意外な返事だった。話を聞くと深刻な事態である。彼は下宿生ではなく寮生で、入学してから三年生の六月まで一度も欠席したことがないことをその時初めて知った。欠席したことのない彼が、なぜ授業を休みだしたのだろうか。

 

   親が呼ばれる
   

 話は逆上る。二年生の後期中間試験の後、親が担任に呼ばれた。赤点が九科目もあった。

担任 「このままだと、息子さんは留年するかも知れません」

 突然の言葉に、母親は絶句した。そして担任との面談後、息子をこんこんと諭した。

母親 「絶対、落第はダメよ。がんばってちょうだい」

 家に帰ると父親が「クラスの中ぐらいをめざせ。平均点は取るようにしろ」と言って聞かせた。
「落第してもいいよ」という親などいるはずがない。だが父親の注文には応えられそうになかった。
 それでもがんばった甲斐あって、二科目落としただけで進級し、三年生になれた。
 進級できたにもかかわらず不安は残った。「三年生では、専門科目が多くて難しい。自分は基礎ができていないのでついていけない。こんなこと友だちに聞けやしないし」という不安である。もう自信は全くない。授業に意欲をなくし、居眠りもする。これじゃ認めてくれる先生もいなくなる。
 六月の前期中間試験はさんざんだった。七科目、十七単位を落とした。彼は「もう学校をやめたい」と思うようになる。展望の無さが無気力に追い込み、授業に出たり出なかったりさせた。
 夏休みに家に帰って、胸の内を両親にぶつけた。

I君 「学校をやめたい。もう続けられない」

母親 「バカなことはやめて。学校をやめてどうするつもりなの?」

I君 「就職する」

父親 「運転免許も、何の資格もない者をどこが雇ってくれるというのか」

I君 「・・・・」

 I君は両親の説得に屈して学校を続けることにした。しかし、何ひとつ状況は変わっていない。変わる気配すらなかった。彼を呼んだのはこんな時であった。

教師 「君のやってることは逃げてるだけではないか。以前にもこんなことがあったのか」

I君 「中二の時、親に有名校を受けろといわれて自信がなかった。友だちと二人でタバコを吸った。内申が悪くなれば受験できなくなると思ったから」

教師 「そういう行動をとって、結果はどうなった?」

I君 「父が先生にひどく怒られていた。家に帰ったら父に殴られるな、と思った。でも、父には叱られなかった。お前にそんなことをさせてしまった父が悪いと、ボクの前で泣いた。もう父には迷惑はかけられないと思った」

教師 「それなのに今度も同じ手を?」

I君 「ボクは圧力に弱いのです。とても親の期待には応えられない。落第もこわい。学校をやめたら今の重圧から逃れられる」

教師 「ビリでもいいではないか。留年しても卒業できれば、それもいいではないか。オレは、車の免許を取るとき仮免を三回も滑った。合格した時はうれしかった。今、運転はひとにひけをとらぬと思っている。ビリになっても、留年しても卒業は卒業だ。その気でいけば、ビリも留年も重圧でなくなるのではないか」

 とにかくハードルを飛び越せる気にさせることがだいじである。退学も「工業デザイナーになるために」というのであれば展望も開ける。展望のない退学はみじめだ。
 それから表情も明るくなり、授業を休まなくなった。居眠りもしたが無気力から脱したようだ。

 

   親と子
   

 I君の家は浜松市近郊の住宅地帯にある。受験期を迎えた母親たちの話題は志望校の話になる。
 「大学は高校で決まる」というのが、中学校や母親たちの認識である。
 I君の母親は、わが子の進路に期待と不安を抱いていた。高専の一日体験入学へやってきたのはそんな時である。いろんなところを見て回りながら「進学相談コーナー」を見つけ思いをぶつけた。
 相談の内容は、「この成績でついていけるか」というものであった。中学校の担任には進学校へは五分五分といわれた。「高専なら就職もできるし、進学もできる」と知って胸のつかえがとれた。
 わが子を技術者にすることは父親の望むところであり、I君も両親の意見に従った。
 I君は好成績で合格し、晴れて高専生となった。近所の親たちからもうらやましがられ、両親も息子の合格が誇らしかった。
 入学して、はじめは一般科目中心の授業で中学時代と同じ気分で勉強ができた。寮生活は毎日が林間学校のようで楽しかった。最初の試験もよくできた。成績は八十点平均で、クラスで七位。

 

   下降する成績
   

 I君の成績は、一年生の前期はクラスの上位、後期は中位に落ちたが、赤点は一科目だけでまずまずのものであった。それが二年生になると、赤点が八〜九科目でクラスの最下位まで転落する。それから親が呼ばれ、親に懇願されて頑張った。最終的に専門科目を二つ落としただけで三年生に進級した。父兄の召喚という刺激が功を奏したといえよう。
 しかし、三年生になっても低迷は続く。前期中間は順位は上げたものの、七科目十七単位落とし、前期末は十一科目二十九単位を落とす停滞ぶりである。学校を続けるも不安、やめるも不安の中で後期中間はやや回復し、最終的には専門科目を二科目四単位落としただけで、四年生に進級した。
 では、入学当時に上位にいたI君がなぜ成績がふるわなくなり、学校をやめたくなるほど低迷するようになったのであろうか。
 一・二年当時の担任は、「友だち関係だろう」という。中学ではそこそこできた子たちが高専に入って来て最初に突き当たる壁は、科目の多さと、授業の難しさである。「中学とレベルが違う」、「こんなに覚えきれない」というのが実感である。
 中学校と必ずしも整合しない授業への困惑、それをどう乗り越えるか、そこが分岐点となる。ここで軟着陸しなければ、困惑した者同士で牽制し合う。I君はそうした牽制の中で自信をなくし、低迷するに至った。不適応の原点は困惑して飛び越せなくなったハードルである。
 自信をなくした学生が自信をもつようになる、重圧に感じていたことが重圧でなくなる、そのやり方はいくらでもある。ハードルを低くして見せるのもそのひとつである。学生たちは自分でそうやって問題解決して行くものであるが、混迷から連れ出す役割を果たせるのは親か教師であろう。

 

   中学の先生は言ったけど
   

 J子は二年生への進級が危うかった。彼女が格別サボった訳ではない。彼女には、高専の授業が難し過ぎるのである。

J子 「中学ではついていけたのに、高専は難しい。今、落第するのが一番こわい」

教師 「受験するとき、中学の担任は何と言っていたのか?」

J子 「受かるのは難しいと言われた」

教師 「合格したときは、どんな気持ちだった?」

J子 「親子ともども『見返してやった』ような気分だった」

 しかし、彼女は入学以来、学力の低迷にあえぎ、留年の可能性を抱えたままだった。

教師 「中学の先生の言ったことは、受験に受かるかどうかだけだったのか?」

J子 「今思うと『入っても苦労するよ』という意味もあった」

教師 「それでそれを打ち消す努力をしたのか?」

J子 「いいえ、授業が難しくてそのままにした。試験の時だけ勉強したが分からなかった」

 K子の場合もよく似ていた。二人はギリギリで入学してきて、最下位をさまよった。授業の難しさに直面して彼女らは自力ではカバーできなかった。いつも未消化のまま定期試験を迎えた。
 彼女らはまだ重症ではないが放置すれば分からない。こういう低学力への手立てはだいじだ。
 二人は、とりあえず先生たちの恩情もあって二科目落としただけでそろって二年生に進級した。

 

   むすび
   

 三倍近い難関を突破して入学して来た子たちが、非行や低学力でその一割が留年し、そして退学していく。これは、本人はもとより親にとってはたまらないことである。学校の中で、毎年これが繰り返されていく。
 実践事例集のU集でも触れたが、留年は再起の緊急避難であり、退学による進路変更も自己解放への重要な手段であることを否定するものではない。むしろ教育手段のひとつであることをもっと肯定すべきである。
 しかし、現場を預かる者は、こういう低学力、あるいは非行でつまずいた学生に、立ち上がるきっかけを与えていく努力を怠ってはならない。研究や公務にいっぱい時間をとられている教師たちにとっては、こういう学生に目を配る時間がないのも現状であるが・・・・。
 小稿では、自信をなくし、重圧から逃れるために学校を去ろうとしていた学生が、教師との接触もあって自力で重圧から自分を解放した例を紹介してみた。学生の状況は、すべて個別的で、その対処の仕方にマニュアルがあるわけではない。一つ一つ取り組むことで力量をつける外はない。
 一つの経験が教師にとって発見であり、また新たな取り組みへの意欲となる。

 

   
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