高専実践事例集U
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1996/7/20発行

   


  
こんな授業をやってみたい

   
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T 魅力ある先生たち
  2 おもしろ授業戦略

 

 ●話題を生かすおもしろ日本史(70〜84P)

  徳川埋蔵金はあるか              田畑 勉         群馬工業高等専門学校教授

   
   

  「数年前、テレビの夜のゴールデンタイムの時間帯に、群馬県内で徳川埋蔵金を探索する試みが数回放映された。毎回一時間、ただシャベルカーが大穴を掘る作業を見せるだけの番組に、半ば呆れ、半ば感心したが、これをかなり多数の学生が見ているのに、びっくりもした。しかも、これについて、なにかと質問されることから、学生の興味の強いことを知った。そこで、郷土に関心の目を向けさせるチャンスと思い、二年生の「日本史」の授業のなかに、「徳川埋蔵金」を軸にすえた講義を組めないかと考えた。しかし、「日本史」の授業は、年間三十回弱(一回九十分)、そのうち四回ほどと少ない近世のなかに、どのようしたら割り込める、一回の講義に仕立てられるかに悩んだ。結局、「徳川埋蔵金」の存否を考えるなかで、学生が幕藩社会の諸相の一端をとらえる内容とした。今年度の「近世」は、「太閤の遺言状」「改革と文化の背離」「一揆と磔茂左衛門事件」、それに、この講義で構成するつもりである。

 

   模擬講義
     さて、私が教壇に立つようになってから二十五年ほどになるが、今日は初めて試みる、大げさに言えば“本邦初演”(ついでに、この言葉も覚える。以下同じ)の「徳川埋蔵金はあるか」という講義だ。大ソロモン王の秘宝といい、海賊キャプテン・クックの宝といい、世間で言われる隠された宝物にあったためしはないが、それでいて、宝物探しには、なんとなく興味を捨てきれないのが人間のようだ。この講義をするのは、皆に「徳川埋蔵金」を探させて、私が一割ぐらいピンハネして、儲けようという“下心”からではない。逆に、私が当時の時代の色々な側面から考えた、「ありえない」という結論を話し、皆をがっかりさせようというのが目的だ。だから、間違っても、学校サボッて、探しに行ったりするなよ、いいか。では、前置きはこのぐらい。

 

   一 徳川埋蔵金伝説の背景と概略
   

  私慶応三年(一八六七)十月、徳川十五代将軍慶喜が政権返上を意味する大政奉還を行い、二百五十年ほど続いた幕府は崩壊したものの、依然として、その態勢は温存され、明治維新政府にとって、警戒すべき強敵に変わりはなかった。このため、翌明治元年一月、維新政府軍は鳥羽・伏見の戦いに、まんまと誘い出した旧幕府軍を破り、その勢いにのり、江戸城に向けて進撃を開始した。これに対し、江戸城大広間では、決戦を主張する主戦派と、穏やかに事実上降伏を主張する恭順派とが激論を交わし、最後に主戦派が敗れた。主戦派の中心人物の小栗上野介忠順は、直
ちに勘定奉行を罷免された。小栗は、翌二月末に、現在の群馬・栃木・千葉三県内にあたる、上野・下野・上総・下総四カ国の十三カ村に分散する領地の一つ、上野国群馬郡権田村、現在の群馬郡倉淵村に引退・居住のため、家族・家来三十余名をつれて、江戸神田駿河台、今のJRお茶の水駅近辺の屋敷を出ることになる。
この小栗が、近い将来、幕府再興をはかる軍資金にするため、大政奉還直後の慶応三年十二月頃、または、権田村に行く明治元年二〜三月にかけ、密かに、江戸城内の金蔵から莫大な金銀を運び出して地中に埋めたとするのが「徳川埋蔵金」の伝説だ。埋蔵金は、歴代の将軍が非常用にと蓄えてきた分銅金という金塊・銀塊とも、大判・小判ともいわれ、その量は三十五トンとも百トンを越えるとも、または、二百万両とも三百万両ともいわれ、今の価値に換算すると数百億円、なかには、どういう計算か、二百兆円にもなるとする人もいるようだ。肝心の埋蔵地は、現在の栃木県日光市内の、徳川家と密接な縁がある日光東照宮周辺や足尾銅山内、山梨県内の山中とする説などもあるが、圧倒的に、群馬県内の各地に求める説が多い。そこで、われわれは、埋蔵地に対する土地勘もあり、郷土の歴史にも馴染む意味からも、県内説に限定し、それもテレビ放映で有名になった、現在の勢多郡赤城村長井田小川の赤城山中説を例に取り上げて、小栗が本当に埋蔵できたのかどうかを、これから考えてみることにしよう。

 

 二 埋蔵過程の諸条件
   幕府の財政と埋蔵金量
   

 幕府の収入は、ほぼ四百万石の直轄領から上がる、米にして百三十 万石、標準的な一石一両で換算すると、およそ百三十万両ぐらいになる。それに、初代将軍家康が二代将軍秀忠に百九十万両、秀忠が三代将軍家光に二百六十万両の備蓄金を残したと言われている。いいか、一両は今の生活感覚でいうと十万円ぐらいなる。しかし、さしもの大量の備蓄金も、中期以降の幕府の財政赤字の補填に流用され、幕末期にかかる頃は百万両も残っていなかった。その上、維新期に入ると、江戸城炎上で六十七万両、品川砲台築造に七十五万両、外国艦購入に三百三十万ドル、長崎・横浜・横須賀製鉄所・造船所建設に二百四十万ドル、生麦事件賠償に四十四万ドル、下関事件賠償に三百万ドル、将軍の二度にわたる上洛に百三十万両、長州征伐に四百三十七万両など、莫大な臨時支出が続き、幕府財政はついに外国からの借金にも頼る破産的状況になっていた。維新政府が旧幕府から引き継がされた、外国からの借金は六百万ドル、およそ三、四百万両分にも達したほどだ。それでも、密かに運び出して隠す、何百万両にもなる莫大な金銀が、まだ、江戸城金蔵に残っていただろうか。そんなことは、とても考えられない。
たとえもし、江戸城金蔵に残っていたとして、小栗が隠すために運び出したとされる金銀は、重量よりも分かりやすい金額でいうと、最低でも二百万両である。つまり、千両箱二千箱だ。いいか、十両盗むと首がとぶ時代だぞ。映画やテレビの時代劇のなかで、金持ちの商人を襲った泥棒が、役人に追われながら、千両箱を一つずつ両脇にかかえて屋根から屋根に飛び移って逃げていくシーンをよく見るが、あれはうそ。飛び移ろうと、ぴょんと飛び出せば、そのまま地面に叩きつけられるのが落ちだ。なぜなら、千両箱の重さは、十一〜十二キロあるからだ。二箱どころか、一箱だって無理だ。そういう重い物だから、人が背負子を使って背負えば一人で三箱、馬の背にくくりつければ、馬一頭で六箱ぐらい運ぶのが、無理のないところだろう。また、大きな川を運行する、米三百俵も積む大型の高瀬船であれば、一艘で千箱以上、船底が平らな艀船であれば、一艘で百五十箱ぐらい運べよう。この輸送時の重量感覚を、頭のなかにいれておくこと。

 

   小栗上野介の立場
   

 さて、小栗は領地が四カ国十三カ村にわたるといったが、決して大名ではない。小栗は、将軍にお目見えできる、禄高一万石以下の旗本五千人、およびお目見えできない蔵米取の御家人一万七千人からなる幕府の家臣団のなかで、二千七百石取の旗本だった。旗本は、三千石以上が上級と考えられるので、小栗は中級の上に位置する旗本といえよう。小栗は、遣米使節の一員となって九カ月にわたって外国を旅行したり、外国奉行となって対馬に上陸したロシア海軍の退去交渉にあたったり、また、歩兵奉行から陸軍奉行並となって幕府陸軍の軍制改革(西洋式の歩・騎・砲三兵の編成)にあたるなど、幕府の優秀な開明的官僚として活躍し、徳川絶対主義国家の樹立を目指したと見られている。
ところで、慶応元年以降、小栗はまたまた勘定奉行になった。幕政は、五万石〜十万石の譜代大名が勤める老中、いわば今の大臣で、その下で最も重要な実務を分担するのが、三奉行の寺社奉行・町奉行(通称、江戸町奉行)・勘定奉行である。「この三奉行のなかで、どの順序で偉いと思う?」。実は、勘定奉行は、重要な財政を担当することから、一番上位にあると思われがちだが、寺社奉行・町奉行のさらに下だ。三奉行のうち、寺社奉行は譜代大名だが、勘定奉行は、二、三千石級の旗本が勤めた。その勘定奉行の定員四名のなかで、小栗は、公事方=訴訟担当ではなく、勝手方=財政担当であったが、いかに優秀であっても、幕府の財政政策の決定者ではなかった。つまり、今の大蔵大臣にあたるのは、老中の勝手掛りであり、勘定奉行は大蔵省の実務責任者の次官か、局長ぐらいと考えた方がよい。したがって、小栗自身どれほどの主義をもっていたにしても、一存で、人から見れば“巨額の背任横領”にあたる、江戸城内の金蔵から、密かに、莫大な金銀を運び出させることができるだろうか。いかに勘定奉行の配下ではあっても、金蔵を管理する幕臣の金奉行以下の役人が、言われるがままに、黙って蔵の鍵をあけ、常識をはるかに越える莫大な金銀の運び出しを、見送ったとは思われない。たとえ、もっともらしい理由が明示された指示であっても、なんの疑問もいだかず、すなおに納得して応じたとは、とても思われない。将軍の直接命令でもない限り、おそらく老中の命令でも、なんの混乱もなく行えたとは考えられない。まして、小栗が大政奉還直後の慶応三年十二月に、勘定奉行の命令で行うことは、とても無理だと思うし、勘定奉行を罷免された後の明治元年の二〜三月に行うなどは、不可能の一言に尽きるだろう。それでも、後者の場合は、勘定奉行を罷免される直前に、あらかじめ、予想して運び出しておいたことになるのだろうが。しかし、それをどこに隠しておいたのだろうか。可能性を“度外視”していえば、それは神田駿河台の小栗の屋敷になるのだろうか。

 

    江戸城金蔵からの運び出し
   

  さて、まず問題になるのは、江戸城金蔵からの運び出しだ。莫大な金銀が江戸城の金蔵に残っていて、その運び出しを金奉行以下の役人がおとなしく了解したとして、小栗は人知れず、どのようして運び出しができただろうか。金蔵は江戸城の内堀のなかでも、中心部の本丸の東南端の寺沢二重櫓と巽三重櫓をつなぐ渡り櫓に沿って並んでいる(概略図を書いて解説)。そこから、千両箱(分銅金にしても)をそのまま運び出せば、宣伝しているようなものなので、人に悟られないように梱包したはずである。たとえ、筵と縄で、簡単に梱包する程度でも、それを大量に持ち込まなければならない。勘定奉行の小栗の指図だけで、そんな変な物や運び込む人足が、鉄砲まで備えて、厳重に警備する江戸城の諸門を、すんなり通過できるだろうか。まして、当時の緊迫した状況などを考えると、なおのことであろう。しかし、それができたとしても、まさか真っ昼間から、金蔵の前でおおっぴらに梱包作業をするわけにいかないだろうから、暗くなるのを待って始めることになろう。
さて、いよいよ運び出しになるが、金蔵はすぐ船に乗せられる場所にはない。そこで、人が背負うとすれば人足七百人、馬をつかうとすれば馬三百五十頭・たずな取り人足三百五十人ぐらいが必要になる。馬は口を縛っていななけないようにしても、図体が大きいし、足音がするし、大体、城内に入る時に人目に立ちやすいことから、この隠密の運び出しは、人が背負う方を選ばざるを得ないだろう。それにしても、定まった職もない無宿人だろうが、これだけの人数を江戸市中で、なんの評判にもならず集められるのかとか、江戸城奥深い金蔵までよくぞ入れたかという問題には目をつぶり、とにかく、真夜中、提灯・松明か月光を頼りに、千両箱を背負った人足七百人に警護の武士を加えた、いわば、うさんくさい長蛇の大一団が、すでに閉鎖された蓮池門から坂下門を通り抜けようというのである。無事通過後の進路は、二通りあろうか。一つは、坂下門を出るとすぐに、人足の背から堀のなかに待たせてある艀船十余艘に積み替え、内桜田門・和田蔵門・呉服橋門を上目遣いで見ながら通り抜け、日本橋川を下って、江戸湾にそそぐ隅田川の河口の永代橋付近に待機させた高瀬船二艘に積み替え、二つめは、坂下門を出ると、長蛇の大一団が、さらに内桜田門・大手門・神田橋門、または一橋門を無事に通り抜け、いったん小栗の神田駿河台の屋敷に運び込むことになろう。それにしても、この江戸城金蔵からの運び出しが、まったく諸門の番士の不審をまねかず、また、他の人目につかないなど、あり得るだろうか。それに、人足七百人の運命は、どうなったのであろうか。金蔵の役人や諸門の番士を黙認させることができたとして、普通ではない状況の中、背負った荷物のかさと重さからも、中身を察知したはずの彼らを、黙らせておくことができるだろうか。できるとすれば、殺害して、口を封じるしかないだろうが、一体、これほどの数の人足を、一人残らず殺害することが可能であろうか。それには、警護の武士がどれほど必要になろうか。小者までふくめ、家来十五人ほどにすぎない旗本の小栗が、理由も知らせずに、大量殺害に手をかす、数百人の殺人実行部隊をどのように用意できたであろうか。しかも、どの場所でおこなうというのか。艀船に積み替えさせた直後に、坂下門の外の広場でおこなうのか、それとも、いったん運び込ませた小栗の屋敷でおこなうのか。人の耳目にふれないよう、明け方までに完了したとしても、その沢山の遺体を隠すことは、とても不可能だろう。とすれば、江戸中の大評判になり、金蔵の役人・諸門の番士はおろか、江戸中の武士から町人まで、疑惑の目を向ける結果になり、町奉行所の探索もさけられなくなろう。大体、殺害に手をかした数百人の武士は、なんの憶測もいだかないのだろうか。こうして見ると、江戸城内の金蔵から、密かに大量の金銀を運び出すことの困難が分かるだろう。

 赤城山への輸送と埋蔵

 “首尾よく”江戸城金蔵から運び出したとして、大量の千両箱を上野国の赤城山まで輸送する経路には、二通りが考えられる。江戸から三〜四日かかる、五街道の中山道を陸送するのか、それとも、七〜八日かかる利根川の船運を使うかである。陸送は、長蛇の大一団になり、まさに十万石以上の大名行列なみになることから、人目に立ちすぎ、わざわざ宣伝することになるので、まずは、船運を選ぶことになろう。
そこで、いったん小栗の神田駿河台の屋敷に運び込んだ場合、屋敷は、近接してはいるが、川に面しているわけではない。五つ、六つの屋敷を隔てた向こうの神田川まで、運び込んだ大量の千両箱を、また、夜間、人目に立たぬよう、迅速に運び出し、あらかじめ手配しておいた艀船に積み込むことになる。それには、多くの人手と、艀船十余艘ほどを確保しなければならない。ようやく、千両箱を積んだ艀船は、筋違橋門・浅草橋門を横目に見ながら、神田川を下って隅田川の両国橋付近に待機させておいた高瀬船に積み替えることになろう。
めでたくも、千両箱を満載した高瀬船二艘は、隅田川を両国橋あたりから下り、または、永代橋あたりから遡り、いずれも、小名木川に入り、行徳河岸から江戸川を上り、関宿から中利根川を遡って行く(概略図を書いて解説)。中利根川を遡った高瀬船は、現在の尾島町の前島河岸、または、天明の浅間山大爆発以降、川底が浅くなり、遡れる最上流になった、一つ先の現在の境町の平塚河岸に着岸する。平塚河岸の場合は、艀船に移し替えて、さらに、利根川本流を遡ることも考えられるが、積み替えの時間や手数もかかり、それに全国の四分の一の関所が集中するうちの、五料・福島・真政・大渡の四つの川関を通らねばならない。だから、前島・平塚両河岸とも、そこで陸揚げして、陸路を運ぶことになろう。両河岸とも、足尾銅山から幕府の御用銅を運ぶ、まっすぐ北に伸びる足尾銅山街道と結んでいる。密かに、河岸から陸路を運ぶにしても、江戸城内ほど気をつかうことはないので、大量に運ぶことができる馬を使うことになろう。埋蔵する時に必要な用具や大一団の食料の輸送もふくめ、馬四百頭以上、荷積み・たずな取り・埋蔵を兼ねる人足四百人以上になろう。埋蔵用具や食料は、千両箱とともに、高瀬船で輸送して来るにしても、馬と人足は、いくらなんでも、何十艘にもおよぶ高瀬船に乗せて、江戸から運んで来たとは思われないので、前島・平塚河岸周辺の農村から、あらかじめ手配して、調達しなければならない。いくら勘定奉行が道中奉行を兼任するからといって、まさか、何十カ村に割当て、人馬を徴発する助郷を利用したとは思われない。助郷は広い範囲にわたる村の重い負担になるので、しばしば訴訟沙汰になるからだ。このため、馬と人足は、おそらく十数カ村からの雇用になり、これだけでも、かなりの範囲にわたる村々で、かしましい話題になるだろう。
ようやく、馬背への荷積みも終え、夜に入るや、大一団は河岸からまっすぐ北上し(概略図を書いて解説)、いずれの河岸からもぶつかる、倉賀野から日光に向かって東西に走る日光例幣使街道を西に進み、柴宿でぶつかる沼田と本庄をつないで南北に走る沼田街道東通に入って北上して駒形に出るか、または、日光例幣使街道をよぎって足尾銅山街道を北上し、大まわりになる日光裏街道をたどり、大胡を経て駒形で、同じく沼田街道東通に入る。結局、両ルートとも、それからは同じ道を北上し、前橋から番所のある米野を通って、沼田藩領に近接する、前橋藩領の北端にある勢多郡長井田小川村に着き、集落を通り抜けて、埋蔵地を目指し、赤城山西斜面の山林を分け入る。埋蔵地は、前島・平塚両河岸から、五十キロメートルほどもあることから、ほとんど休息をとる暇もないほどの“強行軍”の末、明け方に到着するのもやっとであろう。それにしても、この大一団が、行程中にある、村から町に発展した在町や、脇街道とはいえ、いくつもの宿駅、そして、上野国最大の前橋藩領内をも、まるで無人の野を行くがごとく通って行くことなど、可能であろうか。また、長井田小川の村人がたとえ全員起床前であったとしても、多数の人馬の気配や足跡から、不審な大一団の村域内への立ち入りを、察知し得ないとは思えない。
ところで、大一団は目的の場所に着くと、いくらなんでも朝食を取り、少し休息してから、埋蔵する穴を掘り始めたであろう。手で掘り返せるような、浅い穴であるはずがないので、大きな深い穴を掘り、その底に千両箱二千箱を積み並べた上に、最低一〜二メートルの土をかぶせ、さらに表土に草木を植え、砂石をまく等の偽装もするだろうことを考えると、四百人以上の人手をもってしても、作業の完了は、もはや夕方か夜に入った頃になろうか。その夜、輸送から埋蔵まで働いた人足の農民や馬は、どのようになるのだろう。農民は全員殺害し、馬は放ったのか、または、農民も馬も全部殺害したのだろうか。農民達は、これまでの異常な輸送や作業から警戒し、少なくとも、埋蔵の時に使った穴掘用具を手放さず、それを武器に抵抗すれば、殺害は容易なことではなかったはずだ。それでも可能とすれば、警護にあたった武士はどのくらいの数になったであろうか。小栗の家来ではとてもまかなえない数であることは、前にいったとおりだし、少なくとも、殺害したのは農民だけであっても、とてもその遺体を隠せるものではない。万々が一にも、隠しおおせたとして、動員された農民達が帰村しなければ、そこから大騒ぎになろう。それに、大きな穴を掘り、また埋め戻した跡地は、長井田小川村の農民の目をごまかせるだろうか。大体、多数の警護の武士の口は、どうふさぐのだろうか。

 

 徳川埋蔵金の実行者

 四カ国十三カ村に散らばる領地のなかで、小栗が引退・居住した権田村は、上野国の西端にある。権田村から見て榛名山の東、それもさらに利根川の東側にある、前橋藩領内の北端に位置する長井田小川村のなかに、どうして、埋蔵する土地を選んだのであろうか。それが適地であるにしても、江戸で多忙な日々を送る小栗が、とても、知り得たとは思われないし、直接指揮できたはずがなかった。とすると、こんな大事なことを決行するのに、自分の目で確かめもしないで、たとえば、家来の報告を“鵜呑み”にして決めたり、江戸城内の金蔵からの運び出した後、赤城山への輸送・埋蔵の指揮を、これまた、家来にでも任せたというのだろうか。それに、明治元年閏四月、上野国に乗り込んできた維新政府軍は、小栗を家来三人とともに、烏川の河原に引き出して処刑したが、埋蔵金の隠し場所を白状しなかったための処刑とは思われない。処刑は、維新政府軍が、上越・東北諸藩との戦いをまえに、いまだ完全に従属しない諸藩が多い上野国のなかにいる、ついこの間、江戸城大広間の大会議で強硬な主戦論を主張した小栗の存在を、きわめて危険に感じたことにあろう。しかも、この小栗の処刑は、維新政府軍が危険の可能性を取り除くと同時に、それを威圧にして、上野国の諸藩を従わせる“一石二鳥”の政治判断からと考えるべきだろう。
以上、皆ががっかりしそうだが、徳川埋蔵金はないというのが、私の結論だ。

┌─── 板 書 ─────────────────┬────────────────────┐
│ ○徳川埋蔵金はあるか │ │
│ @徳川埋蔵金伝説の背景と概略 │ B江戸城金蔵からの運び出し │
│ 慶応3年(1867)−大政奉還(将軍慶喜) │ 江戸城金蔵→城外への搬出=千両箱と運 │
│ 幕府崩壊→再興の軍資金(小栗上野介)を埋蔵 │ ぶ人足群→諸門の通過・秘密保持の困難 │
│ 埋蔵地−多数→例=赤城村長井田小川地域 │ C赤城山への輸送と埋蔵 │
│ A埋蔵過程の諸条件 │ 中山道不可→利根川船運=河岸→大輸送 │
│ @幕府の財政と埋蔵金量 │ 団による輸送・埋蔵→秘密保持の困難 │
│ 収入130万両ほど=赤字財政→幕末期備蓄金が │ D徳川埋蔵金の実行者 │
│ 100万両以下 │ 小栗の指揮無理→家来に全面委任不可能 │
│ 維新期=莫大な出費→外国からの借金=破綻状況 │ 小栗の処刑−維新政府軍の上野国の制圧 │
│ 埋蔵金→最低200万両(1両は10万円) │ 以上=徳川埋蔵金はない │
│ A小栗上野介の立場 │ 他事項:明治維新、鳥羽・伏見の戦い、 │
│ 中級上の旗本→老中配下の勘定奉行 │ 徳川絶対主義、旗本・御家人、高瀬船・ │
│ 三奉行の最下位→大蔵大臣ではない │ 艀船、五街道、助郷、関所、宿駅、無宿 │
└───────────────────────┴────────────────────┘

 

 

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