高専実践事例集
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1996/7/20発行

   


  
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2 もっと知りたくなる教材づくり

 

 ●国語科教師の実践力とは何か(186〜197P)

  「読み方」を教える                   吉原英夫  北海道教育大学助教授

     
   はじめに  
   

  平成六年四月に現在の勤務先に転出してから、学内の他の先生方とともに、「教師の実践力」ということについて考えています。「教師の実践力」は、生活指導、部活動の指導など多様ですが、国語という教科の指導における実践力とは、いったい何をいうのでしょうか。読むことの指導に限ってみても、指導に必要な力量をいろいろ指摘できますが、私は教材を読み取らせる中で「読み方」を教えることのできることが、読むことの指導におけるプロの教師の力量ではないかと考えています。
 ここでは、話を具体的にするために、斎藤喜博氏の授業記録をとりあげます。国語教育の世界には、この教材をこのように指導しましたという類の報告は、積み上げればそれこそ富士山よりも高くなると思われるほどありますが、自分が実際に行ったままの授業記録をまとまった形で残しているのは、私の知る限りでは、芦田恵之助氏と斎藤喜博氏の二人だけです。芦田氏の授業は戦前の国定教科書を扱ったものがほとんどですので、ここでは斎藤氏の授業記録をとりあげます。

 

   斎藤喜博氏の授業
   

 ここでとりあげる斎藤氏の授業は、1973年7月9日に宮城教育大学附属中学校二年生を対象として行われたもので、教材は村野四郎の「鹿」である。その授業記録は、『第二期斎藤喜博全集第五卷』(国土社、一九八三年)に収められている。
 教材となった「鹿」を示す。

鹿 村野 四郎

鹿は 森のはずれの

夕日の中に じっと立っていた

彼は知っていた

小さい額が狙われているのを

けれども 彼に

どうすることが出来ただろう

彼は すんなり立って

村の方を見ていた

生きる時間が黄金のように光る

彼の棲家である

大きい森の夜を背景にして


 この詩の初出は、『詩学』1956年6月号で、後に『亡羊』(無限社、一九五九年)に収められた。
 この詩を扱った斎藤氏の授業記録の一部を示す。

教師 二行目に、 「じっと立っていた」とありますね。(朗読)この「じっと立っていた」と いうのは、どういうこと? ぼんやり立っていたの? のんびり立っていたの?(板書しな がら)「じっと」立っていたの? 「じいっと」立っていたの? 「じーっと」立っていた の? この三つは、みんな感じが違いますね。これも頭においてください。それから、七行 目に、「すんなり」というのがありますね。これはどういうの?

生徒 何もしないでそのまま立っている。

教師 そういう意見が一つ出た。ほかの人は?

生徒 ていこうなく。

教師 なるほどね。

生徒(同じ男子) 何も感じないで、抵抗しないで、ねらわれているのをしっているのだが、 何もしない、抵抗しない。

教師 うん、なるほど。大事なことをおさえているわけね。あとは?

生徒 ねらわれているのをしっているのだけれど、身がまえを持たないで、すらっとして立っ ている。

教師 いま三つ出たが、みんないいですね。まだありますか。

生徒 自然な状態でいる。

教師 うん、なるほど。いま四人の人が言ってくれたので、「すんなり」という言葉が、この 詩ではどういうものだかということが、みなさんの頭にはいっていきましたね。
 人間がすんなり立っているというときには、どこにも力がはいっていない。どこも力んでいない。このへんに力を入れて(肩をさし、肩に力を入れて)力んでいると、「すんなり」ではないね。だから、ひじにも、腕の先にも、肩にも、ほっぺたにも、足の先にも手の先にも、どこにも力がはいっていないで、やわらかく、しかも、だれたところがなく立っている。そういうのが、すんなり立っているということですね。(略)
 それで、はじめの「じっと立っていた」ですが、「じっと」だから、「ぼんやり」とか「のんびり」とかではないね。「じっと」という言葉のなかには、何か「きりっ」とした冴えた感じがある。決意のようなものもあるし、荘厳な感じとか、こらえた悲しみの感情のようなものもふくまれている。「じいっと」だとか、「じーっと」になると、もっと重い感じになりますね。(朗読) このなかにはそういう感じがありますね。ここには何か、きびし い、澄んだ美しさがある。

 斎藤氏は、二行目の「じっと立っていた」と七行目の「すんなり立って」をとりあげ、それぞれの語からどのような感じを受けるかについて聞いている。七行目の「すんなり」については、「何も感じないで、抵抗しないで」「身がまえを持たないで、すらっとして」「自然な状態でいる」という生徒の発言があり、斎藤氏はそれらを受けて、「どこにも力がはいっていないで、やわらかく、しかも、だれたところがなく立っている」とまとめているが、生徒の発言と斎藤氏のまとめとの間にはずれがある。生徒の「抵抗しないで」「身がまえを持たないで」という発言は、明らかにこの詩の三行目から六行目をふまえたものである。それに対して斎藤氏の「どこにも力がはいっていないで、やわらかく、しかも、だれたところがなく立っている」というまとめは、「すんなり」の一般的な意義を説明しているにすぎない。斎藤氏は生徒の発言を正確に受け止めていないのである。「じっと」については、斎藤氏が「『じっと』という言葉のなかには、何か『きりっ』とした冴えた感じがある。決意のようなものもあるし、荘厳な感じとか、こらえた悲しみの感情ようなものもふくまれている」とか「何か、きびしい、澄んだ美しさがある」と、自分の受け止め方を一方的に述べている。しかし、「じっと」という語自体にそのような感じが含まれているわけではない。「鹿」や「夕日の中に」という語句とひびきあわせるとそのように読めるということであろう。
 斎藤氏は、「じっと」と「すんなり」という言葉について、「この『じっと立っていた』というのは、どういうこと?」とか「『すんなり』というのがありますね。これどういうの?」というように漠然と問いかけ、一方的に自分の受け止め方を述べているだけであって、どのような「読み方」をすれば、「じっと」と「すんなり」という言葉を的確に読み取ることができるかという指導をまったく行っていない。私は、ここに斎藤氏の授業の最大の問題点があると考える。斎藤氏の授業には、その教材の読み取りにどのような「読み方」が有効なのか、その教材を読み取らせる中でどのような「読み方」を教えるのか、という考え方が欠落しているのである。

   「読み方」の理論
   

 「読み方(読みの技術)」の理論は、いろいろ問題を含みつつも、現在までにかなりの蓄積がある。そのうちのいくつかを紹介してみたい。
 戦後、「読み方」を指導することを主張したのは時枝誠記氏である。時枝氏は、『国語教育の方法』(習文社、一九五四年)において、

 一 国語教育は手段についての教育である

 二 国語教育は訓練学科である

三 国語教育は技術教育である

四 国語教育の地盤は伝統主義である

と喝破し、その考えに基づいて中学校用の教科書である『国語 言語編』(中教出版株式会社、昭和二十六年文部省検定済)を編集した。
 その「詩の読み方」では、「詩を読む時に注意すべき事柄」として、

一 題 二 行 三 聯 四 韻律 五 用語 六 その他

という六項目をあげ、それぞれについて解説している。
 昭和三十年代後半に、輿水実氏は、プログラム学習の影響を受けて、「国語のスキル」を提唱した。

 何かをする時に、そうやるとたやすくやれる、じょうずにやれるというようなものをスキルという。通俗的にいうものごとのコツである。それは、技(わざ)であり、術(じゅつ)である。……ことばを使って、話す、聞く、読む、書く活動をすることは、水泳をしたり運転をしたりすることと同じで、その本質はスキルである。われわれは児童・生徒に、話し、聞き、読み、書く行為がじょうずにできるコツを体得させなければならない。     (『国語スキルのプログラム学習』明治図書、一九六二年)

 輿水氏は、このような考えに基づいて『国語のスキルブック 読解編』(光文社、一九六三年)を編集した。この本では、「段落相互の関係・作品から読みとれるもの・気持ち(心情・心理)」など二十のスキルを系統化して提出している。
 輿水氏のスキルについては、「書かれている内容、筆者の考えを理解しそのまま受けとるという『受けとり読み』の読解観にもとづくもの」であり、「言語技術は現実をより深く、正しく認識し、よりよいものに変えていく行動を目指す言語能力を育てるためのもの」という認識が欠落しているという批判がある(井上尚美『言語論理教育への道』文化開発社、一九七七年)が、斎藤氏のような授業が行われている限り、スキルを教えるという考え方の有効性は、現在も失われていないであろう。
 昭和四十年代になって、 西郷竹彦氏は、 文芸学を提唱する。西郷氏の文芸理論は、 普遍的・客観的な作品分析の用語・方法に基づいて表現分析を行うところに特色がある。その理論は、『西郷竹彦文芸教育著作集』全二十三卷(明治図書)にまとめられているが、「西郷文芸学の理論体系にもとづき、それぞれの各論ごとに主要な概念・用語について解説した文芸学の辞典」であるという『文芸学辞典』(明治図書、一九八九年)では、「形象論、視点論、人物論、構造論、表現論、文体論、主題・思想・象徴論、虚構論、典型論」という九つの論に分け、九つの論のかなめともいえる「視点論」においては、「視点人物と対象人物、内の目と外の目、視点の転換」など二十七の項目について解説している。高い評価を得ている反面、「文芸学理論は複雑・広大であり、難解である」(須田実『戦後国語教育リーダーの功罪』明治図書、一九九五年)ともいわれるゆえんである。
 井関義久氏は、一九七二年に『批評の文法』(大修館)を刊行する。井関氏は、「批評のための文法は、表現分析の技術だ。……文学の教室は、批評の文法を教えるところでなければならないと思う」と言い、巻末の「おもな批評用語」において、「イメイジの使い方・クライマックス・視点・話主」など三十五の批評用語について解説している。井関氏は、「ここで扱おうとしているのはごく初歩的な術語ばかりであって、高校生の段階で使いこなせるものに止めてある」と言っているが、あるていどの訓練をつまなければ、これらを使いこなすことはできないであろう。
 この分析批評を討論的授業を成立させるための方法論として用いたのが、向山洋一氏(教育技術法則化運動代表)である。向山氏は、そのデビュー作である「分析批評による文学教育と子どもの成長」(日本国語教育学会『月刊国語教育研究』八十三号)において、

ある作品を読んでの「悲しかった」「面白かった」という感動の授業に於ては、次時へ直  接つながる内容はない。そういう感動はその作品と読み手との間に生れる固有のものであり、作品がちがえば、感動もまた異なるからである。しかし、視点、イメージなどの見方は、作品がちがっても応用できる。音楽の和音、絵画の遠近法がその作品にも適用されるようにである。

と、分析批評を導入することの効果について述べている。
 科学的「読み」の授業研究会の大西忠治氏は、「構造読み・技法読み・主題読み」という、三段階による「詩の読み方」を提唱した。「読み」研方式といわれるこの「読み方」は、「構造読み」で詩の構造を「起承転結」と押さえ、「技法読み」で主要な技法を中心として詩の形象を読み取り、「主題読み」で「転」「結」「題名」と重ね合わせて主題を読み取るというものである(大西忠治『入門・科学的「読み」の授業』明治図書、一九九〇年)。ただし、すべての詩の構造を「起承転結」で押さえようとするのは、かなり無理がある。

 

   「鹿」の「読み方」
   

 読むことの指導において、どのような「読み方」を指導するかは、指導者・学習者・教材によって決まるが、「鹿」という詩の「じっと」と「すんなり」は、どのような「読み方」によって指導するのが有効か。私は「視点」によって指導するのが有効であると考える。
 井関義久氏は、「視点」を「話主の、作中場面や作中人物に対するかかわり方のこと」(『国語教育の記号論』明治図書、一九八四年)と定義し、次のように解説している。

  一人称(限定)視点……話主が作中場面に登場し、作中人物として判断を下したりする。一人の人物の目に限定するから、他人の心の中までは語れない。三人称限定視点……話主は作中場面に登場せず、ある特定の人物の立場に限定して、その人物の目で物事を判断したりする。当人の心の中にだけ立ち入り、他の人物については外から眺めるだけになる。

  三人称全知視点……省略

  三人称客観視点……話主は作中場面に登場せず、作中人物たちの言動を描くだけで、だれの心の中にも触れない。事柄が個人的な考えや感情を抜きにして述べられる。

 この「視点」によって「鹿」という詩を分析するとどうなるか。
 一、二行目の「鹿は 森のはずれの/夕日の中に じっと立っていた」は、話主は作中場面に登場せず、「鹿」を外側から客観的に描いているので、三人称客観視点である。三行目から六行目は、「鹿」が「彼」に置き換えられ、「彼は知っていた/小さい額が狙われているのを」というように、話主は「彼」の心の中に立ち入っている。したがって、ここは視点が転換して、三人称限定視点で書かれていることになる。このことによって読者は、追いつめられて死から逃れることができないことを悟った鹿の内面をうかがい知ることができるわけである。七、八行目の 「彼はすんなり立って/村の方を見ていた」は、三人称客観視点で書かれているが、読者は三行目から六行目においてすでに死に直面した鹿の内面を知っているので、「すんなり立って」は運命を受け入れた鹿の姿であると読めるのである。
 以上のように、どのような「視点」で書かれているかということは、この詩を読み取るのに有効であるとともに、ここで「視点」による分析方法を学習すれば、他の教材を読み取る武器にもなるのである。

   おわりに
   

 国語の授業では、ただ単にその教材の内容を読み取らせるだけではなく、その読み取りの中で、他の文章を読み取る時にも応用できる「読み方」を習得させるべきであるということを述べてきました。これは、ここ二年の間に、小学校と中学校の研究授業をずいぶんたくさん見せていただき、斎藤氏と同じような授業が行われていることから提案したものであって、高専の先生方にはあまりお役に立たないことかもしれませんが、「読み方」を教えるということの有効性について議論していただけるきっかけにでもなれば幸いです。

 

   
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