高専実践事例集
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1996/7/20発行

   


  
こんな授業をやってみたい

   
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1 学びたい学生たち

 

 ●ドイツ語ゼミ(169〜184)4P)

  自由選択のドイツ語、その哀歓             堀米 徹  沼津工業高等専門学校名誉教授

   胸つまる別れ  
      一九九三年二月六日。それは有志の学生七人と一年十カ月のあいだ、おもに始業前の時間を使って楽しく続けてきたドイツ語の特別授業の最後の日でした。五年生の日程を考えると、これ以上続けることは無理でしたし、予定していた最後の文法項目の『分詞・冠飾句』もちょうど終わるところでしたので、ここで区切りをつけることにしたのです。この人たちのために一ページまた一ページと作ってきたテキストは一九二ページになりました。「もう少しで二百ページになりますね」と目を輝かしてくれた学生の夢には及びませんでしたが、それは仕方のないことでした。 この最後の授業が終わったとき、私はもう胸がつまって、七人の学生たちに、ただ「ありがとう」としか言えませんでした。それほどに、彼らとのこの一年十ヶ月が私にとって幸せなときだったからなのです。私ほど幸せな者が他にいるとは思えませんでした。
 卒業式の日、式場での予行のあと、私たちはもう一度私の部屋に集まりました。私のもくろみは、業者に委託して両面にコピーし、きちんと製本しておいたテキストと他のもう一点とを、記念に受け取ってもらうことだったのですが、学生たちのほうでも私への記念品を用意してきましたので、そこには思いがけないプレゼントの交換会がうまれました。彼らの気持ちが嬉しかったのは申すまでもありません。それと同時に彼らとの別れがいよいよ現実となるのを目の前にして、私はまたまた胸がつまり、年甲斐もなく涙声になってしまったのでした。
 やがて、彼らのいなくなったあとの私のなかにはポッカリと空洞ができ、いないはずの彼らの姿を学校のなかや街頭に求めるようなぐあいでした。ようやく前を見て過ごせるようになったのは、四月の中頃に、ベートーヴェンの歌曲集《遥かなる恋人に寄す》を聴いたときからでした。

 

   色紙に綴られた七人の言葉
   

  私七人の卒業生からの記念品のなかに、寄せ書きの色紙がありましたが、そこには次のような文章が綴られておりました。

 「この二年間でだんだんとドイツ語がわかるようになっていき、日頃の地道な努力がどれ程身につくかということがとてもよくわかりました。このことを良い教訓として、これからのドイツ語や他の勉強も努力していこうと思います。本当にお世話になりました」(D君)

 「二年間ありがとうございました。五年間で一番勉強したのは独語だったかもしれないなと今になって思います。これからも続けていけるような勉強にめぐりあえたことをとてもうれしく思います」(F嬢)

 「二年間という短い期間でしたが、お世話になりました。英語より独語の方が上達が早かったように感じます。学問に終わりということはないので、これからも勉強していきたいと思います」(I君)

 「この二年間、独語は他の勉強や卒研に行き詰まったときの心のオアシスでした。自分に負けそうなときも、独語に集中していると不思議と元気になれました。私の独語の勉強は始まったばかりだと思っています。この二年間を心の支えに、これからもがんばります。二年間本当にありがとうございました。先生のお陰でここまでこれました。後輩への御指導もがんばってください」(M嬢)

 「二年間があっという間でした。こんな私でも勉強が続けられたのは、本当に先生のおかげです。ありがとうございました。いつかドイツへ旅行に行っても困らないくらいの力をつけられるまでがんばりたいです」(S嬢)

 「朝の独語は、学校の普通の講義とは一味違い、楽しく勉強できました。そして何よりも自分の力となったことがうれしいです。二年間熱心な御指導を本当にありがとうございました」(U君)

 「語学が苦手な私が最後まで続けられたなんてうそのようです。本当にお世話になりました。これからも無理をしないで続けていけたら好きになれそうな気がします。がんばりたいと思います」(Y嬢)

 

   何がこんなによかったのか
   

 色紙に述べられた七人の感謝の気持ちが彼らの真情であったことを、私はすこしも疑いません。そのことは、のちの便りも裏づけてくれます。いいえ、それどころか、彼らの気持ちはふだんから、あるいはうすうすと、あるいははっきりと分かっていたのです。教室へはいつも明るい顔をして入ってきてくれていましたし、人なつこいU君などは、私のところへ来ると、このドイツ語が楽しいということをよく話してくれていました。また、たとえばM嬢の「ドイツ語は心のオアシス」といった表現なども、色紙ではじめてお目にかかるものではなかったのです。
 私たちの特別授業の何がお互いにとってこんなによかったのかと自問するとき、私はその答えとして、目先の功利にとらわれない純粋な気持ちで、忍耐強く勉強してくれただけでなく、つねに感謝の気持ちをも持っていてくれた、こういう学生たちとの幸せな巡り合い以外のことを思いつくことができません。
 自分のしていることがこの人たちに喜ばれているということぐらい、私を鼓舞してくれることはありませんでした。忙しい勉強のなかで、この演習がオアシスだと言ってくれたり、早く勉強をしたいからと言って、次のプリントができているかと聞きに来られたりすれば、彼らのために自分にできる最善のものを、しかもできるだけ早く作らねばと頑張るのは、自然の勢いというものであります。
 そのテキストづくりは正直に言ってなかなかの難事でした。催促に来られたとき、たった一問の練習問題もできずに呻吟していたということも一度や二度ではありません。文法や表現上の問題が解決できないでいることもありました。しかし、この人たちのことを思えばまことに楽しく、この仕事が苦労や負担に感じられたことはありませんでした。
 卒業後に訪ねてきてくれた一人は、次のようなことを言いました。「私たちのがよかったのは、先生がテキストを熱心に作ってくださるのを私たちが直接に見ていたから、私たちも一生懸命にそれに応えようとしたことだと思う」と。同じ主旨のことは他の人たちの便りにも書かれておりました。こうして、私は彼らに応えようとしたと言い、彼らは私に応えようとしたと言う、なにかお互いをたてたような言いぶんになりますけれども、結局、私たちの特別授業はこのような好ましい相互関係によって成り立っていたことになるのでしょう。

 しかし、私は偽りのない心境を次のように書いて、卒業生に送りました。

 「あなたがたに感謝していただくのはとても嬉しいことです。これからの発奮剤ともなります。しかし、僕にあんなことをさせたのは他ならぬあなたがただったのです。ですから、ほんとうに感謝すべきは僕のほうだといまも思っています。あなたがたとの二年間から、僕はほんとうに大きなものを与えていただいたのですから。というのは、あれが不器用な僕にとって、最も自分に適った生き方だったからなのです。あなたがたにああいう生き方をさせていただいた幸せは、僕の終生の宝として残っていくに違いありません」

 その後、よい学生とは何だろうとか、学生とのよい関係とは何だろうということを考えるとき、私はこの一年十カ月のことを思い浮かべるのです。

 

   特別授業の誕生とその一年目
   

 この特別授業の前身として、希望する学生を対象とした補講というものがありました。始めたのは一九八七年のことで、大学編入学試験を受けようとする人たちの一部に「ゼミナール」をやってくれと頼まれたのが、そのきっかけとなったのです。この補講はその後も口コミによって受け継がれ、細々とながら途絶えることなく続いてまいりました。
 
しかし、そのあいだに私の意識に変化が起こりました。私の補講を、編入学希望者の一部に頼まれて行うものではなくて、就職・編入学にかかわりなく広く開放し、通常の授業よりも進んだ勉強をしたいと思う学生にその機会を提供するものにしたいという考えになったのです。
 沼津高専ではドイツ語は四年生に三単位、五年生の選択科目に二単位、両方をあわせても五単位しかありません。私のとっている授業方法では、このあいだに受講者に提供できる学習素材は微々たるものにすぎません。文法項目で言えば、現在完了までがやっとで、再帰動詞、不定詞、従属の接続詞、関係詞、受動表現などは多くてもほんの数例しかテキストのなかに盛り込むことができません。これらの素材をよく消化できるところまでは程遠いのです。これでは、大勢の学生のなかにいる、強い興味をもってドイツ語の授業に参加していて、機会さえあればもっと大きく伸びる可能性をもっていると思われる人たちに対し、自分の倫理的な責任を果たしていると言えないのではないか。私はそう考えたのです。こうして、「補講」を新たな視点から考えるようになったのでした。
 正確な記憶がないのですが、一九九〇年の補講が新たな試みの第一年だったのではないかと思います。遅くともこの年には、始める学年を四年とし、二年間続けることにしていたはずです。この年、はじめはまずまずと言える程度の参加者があり、順調なスタートをきったかのように見えました。しかし、結果は惨憺たるもので、二年目にはたった二人になってしまいました。しかもそのうちの一人は大学の編入学試験のためにといって、二年目になってから加わった学生でした。そして最後まで続けたのはこの一人だけだったのです。最大の障害はクラブ活動と時間が重なることが多かったことにあったようです。
 そして一九九一年。いよいよ、この稿のはじめにお話しした「特別授業」の始まる年を迎えます。実は、前年度の補講に、私のほうからの誘いに応じて一人の三年生が参加しておりました。結局まだ無理だということで、まもなくやめることになるのですが、四年生になったこの人から、さっそく「あの補講をやってください」という要請がありました。「特別授業」はこれに応える形で始まったのです。
 開始に先だって、四年生の全部がドイツ語の通常の授業を二週間ほど経験したころに掲示を出し、説明会を行いました。その掲示や説明会では、特に次のことが強調されました。すなわち、?この補講はみずからさらに進んだ学習をしたいと思う人のためのものである、?月水金の始業前、八時から行う、?主役は学習者自身であり、したがってテキストの解説は自分で読み、練習問題は自分でやってくることが不可欠の条件である、ということです。なお説明会では、夏休みにも中断なく、受講者の都合に合わせた別日程で続けることを予告しておきました。
 説明会には二四人が来ておりました。始業前という厳しい条件をつけられながら、なおこれだけの学生が関心を示したということにはびっくりしました。さらに新鮮な驚きと大きな喜びをもたらしたのはその後の学生たちの様子です。取り組み方は良好でしたし、夏休みを迎えるまでに脱落していった人はわずかしかいなかったのです。それはほんとうに楽しい日々でした。
 しかし、夏休みは大きな関門でした。かなりの数の参加者は維持できたのですが、何人かは来なくなりました。そして秋から冬へかけて、身についた力の差が大きくなるにつれ、朝起きるのが辛くなるにつれ、また、余分な勉強が面倒くさくなるにつれて、抜けていく人の数が増えていきました。こうして、年を越すころにはわずか七人になってしまいました。しかし、これが次の一年間をも頑張り抜く素晴らしい七人のグループとなったのです。

 

   授業内容とテキスト
   

 この時間のために私のとった授業方法は全く平々凡々でありまして、少なくとも私自身がこれを通常の授業に用いたならば、絶対確実に破綻してしまうというものであります。こつこつと地道な努力を重ねていける人、課題と取り組んでこれを解決していくことを「楽しい」と感じてくれる人、そういう人を対象とした授業として考えられたものだからなのです。
 テキストの各課は文法の解説と、ほとんどが和文独訳である練習問題とで作られています。時間中に改めて文法の説明をするということはめったにありません。授業は、学生が自分でやってきた練習問題の解答を黒板に書く、それを点検して要点を確認する、誤りがあれば説明して正す、あとはできるだけよい発音で滑らかに読む、そういう作業の連続にすぎないのです。つまり、主役はあくまでも学習者、私は単に学習材料の提供者であり、助言者であるにすぎません。単調と言えば、これほど単調な授業はないでしょう。
 テキストは、最初にお話ししたとおり全部自分で作りました。九一年四月から九三年二月までは、実際にきょうかあすにも使ってもらう学生を目に浮かべ、一回の授業の経験を次に生かしながら作っていました。使ってみて分かりにくければすぐに作り直しましたし、ときにはまだ原稿の段階で見てもらって意見を求めることもありました。ただ、その後の人たちには、当分のあいだ、このときにできあがったものをそのまま使うことになります。
 テキストの全体は三七課からなり、動詞の現在人称変化??、名詞の性と冠詞・人称代名詞、所有冠詞、冠詞と名詞の格変化、名詞の一格・二格の用法、名詞の三格の用法等々と続き、接続法???、比較・読解演習、分詞・冠飾句・読解演習で終わっております。
 練習問題の種類は和文独訳、語形変化、書き換え、適語補充、独文和訳となっております。圧倒的に多いのは和文独訳で九五三題も作りました。文法知識を自動的に機能するものとするためにも、文構成法になじむためにも、和文独訳が最も適していると思うからです。なお、新しい課の練習には、つとめて既習のことを繰り返し復習できるような工夫もしました。
 和訳のみを求める問題は逆にたいへん少なく、はじめて現れるのもやっと第二七課「不定詞?」からになります。読解力の芽は音声練習や作文練習などによって文の構成になじみ、文章感覚を身につけていくうちに育っていくものだと考えるからです。和訳の練習問題は二七題ありますが、そのうちの一五題、行数にして全体の七七パーセントにあたる一七三行が最後の二つの課に集中しております。なお、一七題の文章がケラーの『緑のハインリッヒ』から取られているのですが、当時の私には材料を新しく他に求めるだけの余裕がなかったためでした。しかし、二年目をも頑張り抜いた学生たちは、こんな一九世紀の小説の抜粋にも喜んで取り組んでくれました。

 補講から自由選択へ
 91年に始まった授業のことをこれまで「特別授業」と呼んでまいりましたが、私たちは実際にはこれを従来どおりに「補講」と言っておりました。この稿にことさら仮の名を用いてきたのは、九二年からこの補講が単位の認定される自由選択科目に変わるということがありましたので、そのことに触れるまで、少し実体をぼかしておきたかったためなのです。「特別授業」は実は前半一年が「補講」、後半一年が「自由選択科目」だったのです。
 自由選択科目としてのドイツ語の開設は、私が願い出て実現したのですが、私があえてそのような発議をした理由は三つありました。第一は、七人の学生を一年間ずっと見ているうちに、彼らの孜々として励む姿とその成果に対して、何らかの形で報いてやりたいと考えるようになり、その思案の行き着いた先が単位の認定だったということです。もちろん、今後ともこのような学生との巡り合いは必ずあるであろうと考えたればこそのカリキュラム変更の願い出でした。
 第二は、この「補講」を「自由選択科目」にできれば、これを履修する学生は、五年生になったときの選択科目「国際理解」(英・独・仏・国際教養)に対して、これまでよりも自由な対応できるだろうということでした。たとえば、五年生にはもう履修を義務づけられた英語がありませんので、ここでドイツ語を選択すれば、学校で英語の学習を継続して単位を修得する機会はなくなります。もしドイツ語の単位が「自由選択」のほうでとれるならば、英語もぜひ続けたいという学生は「国際理解」でドイツ語の代わりに安んじて英語を選べるようになるのです。
 第三の理由は、設置基準の改訂に伴う総履修単位削減がやがて沼津高専で現実の問題となったときに、きちんとそれに対応できるよう、いまのうちから自由選択履修の試行を重ねて、現在の形態をすっかり変えてしまうことも含めた将来の履修形態の可能性を探りたいということでした。 とにかく、こうして私の補講は九二年度に衣替えをすることになりました。五年生には移行措置として二単位が、四年生からは、四年次・五年次のそれぞれに一単位が認定されることになりました。ほんとうは、二年間の補講のうちの前半は単位認定という見返りのない「補講」として残し、これをやり遂げて進む後半のみを二単位の「自由選択科目」にしたかったのですが、私の希望どおりにはなりませんでした。

 恋人なんて毎年会えるものじゃないよ、と友は言う
 これから五年生になろうという例の七人は、彼らの補講がこれからは自由選択科目になるという私の話を、ごく平静に聞いておりました。この時間が今後どうなろうとも、自分たちがこのまま続けるのは当たり前のことだという受けとめ方だったのです。事実、彼らは最後まで変わることなく私を楽しませてくれましたし、「ドイツ語をやってよかったとお互いによく言いました」という、のちのS嬢の便りのとおり、彼ら自身、最後までこの授業を喜んでくれたのでした。
 ところが、新たに始めた四年生には思いも寄らないことが起こりました。まず、いくらなんでも異常ではないかと思われたのが、説明会に集まった学生の数でした。結局そのうちの四一人でスタートするのですが、前の年の二四人とは明らかに異なる学生が大勢いて、開設の趣旨は情けないほどに踏みにじられました。泥足で心の奥底まで踏み荒らされたという感じなのです。
 いちばん多かったのは、いつになっても最初の数課のことが全く分からないままでいる人たちでした。その他に、指名されて自分の解答を黒板に書くべきときに、はた迷惑などにはお構いなく、黒板の前に出てはじめてじっと考え込む者など、この授業に対してネガティヴな働きしかしない学生が一年目の終わるまで絶えませんでした。ひどいのになると、たえず欠席をするだけでなく、黒板に出るときには他人のノートを寸借してごまかすようなこともしていながら、「優がもらえないなら、おれはこんなのやらないぞ」などとうそぶく始末でした。
 こんなぐあいでしたから、一年目の終わりにまだ三一人もの受講者が残っていたのが、私にはむしろ不可解なことでした。そのうちの一八人が二年目を続けるのですが、やがて編入学をめざす人たちが余裕をなくして次々と脱落していき、最後には五人だけになってしまいました。しかも、まじめに努めたと言えるのは二人だけだったのです。テキストも終わりませんでした。
 次の年(九三年度)の四年生の授業は三〇人で始まり、二年目はやはり五人で終わりました。一年目の状況は前年の四年生と比べるとずっとよく、このコースに向かない人はあまりいないようでした。冷静に振り返ってみると、全体としての学習態度もたいへんよかったことを認めなければなりません。それでも、指名されるといつでも、黒板の前に出てから考え始めるという者、欠席が多いことによってみずから招いた当然の結果(つまり「優」がもらえないということ)を知ると、憤然としてやめてしまう者など、いまは、よかった学生よりもこういう学生のほうが妙に頭にこびりついているのです。
 もうひとつ、このときの四年生がよい思い出を残してくれなかった原因がありました。それは、自分の全教科の成績の平均点にこのドイツ語の成績が与える影響を極度に恐れるグループがいたいうことです。ドイツ語のために平均点が下がるのはいやだと言うのです。一年目終了時の前に、受講生の過半数をしめるあるクラスの学生が一人残らずやめてしまうということがありましたが、そのうちの何人かはこの理由でやめたのでした。平均点への影響を恐れて行動する傾向は、前年度にもわずかながら見られました。目先の功利にとらわれた学生の行動を苦々しくは思いましたが、無理強いをする気はありませんでした。
 このような日々のなかで、私は例の七人との巡り合いを懐かしく思いつつ、「あれはやはり、奇跡としか言いようのないことだったのだろうか」と何度嘆いたかしれません。親しい友人はそんな私に対して、「恋人なんて毎年会えるものじゃないよ」と言うのでした。

 陽は沈み、陽はまた昇る
 一九九四年の六月。例年なら一カ月半も前に新しい四年生の授業を始めていたというのに、この二年間の必ずしも楽しいとは言えなかった経験から気が重くなっていた私は、この頃になってようやく、もうそろそろ始めなくてはいけないと思うようになっていました。ちょうどそういうところへ、五年生から「この授業を待っている四年生がいる」との情報がもたらされたのでした。「自分から勉強をしたいと待っている学生がいるのだ」−−私にとって、これはほんとうに時宜を得た発奮剤でした。
 こうして、九四年六月から九六年三月までの授業が始まりました。参加者は最初からいつもよりも大分少ない一三人、そしてほぼ一年後には現在の六人に落ち着くことになりました。この少人数で始まった正味一年七カ月は、しかし、私の自由選択の授業にも悪いことばかりが続くわけではないということを教えてくれることになりました。おそらく、何のために来ているのかわからないような学生が混入しなかったためなのでしょう。私には、ひさしぶりに楽しい時間が訪れるようになりました。  いまは、六人の五年生とテキストの最後の部分である『緑のハインリッヒ』の抜粋を読んでおります。詳しい注に助けられてとはいえ、彼らが訳すのを聞いているとほんとうに感心してしまいます。もちろん彼らにもよく理解できないところはあります。しかし、しばしばそのまま「翻訳」原稿として使えるのではないかと感嘆するような訳し方もしてくれるのです。いったい彼らがどこでこんな力をつけてきたのかは、私にはよく分かります。それは、おびただしい和文独訳の練習問題にひとつまたひとつと取り組みながら、地道な努力を積み重ねてきた賜なのです。訳したあとは学生が一緒に音読をしますが、これがまた意味の分かっている人の淀みない読み方になっているので、私はしばしば「すごいねえ」の一言しか発することができないくらいです。
 機会さえ与えられれば学生にはこんなこともできるのだ、と「七人」の時代の陽光が再来したことを喜ばずにはいられません。そして、学生たちのためにこういう特別な勉強の機会を作ろうとしたのは、やはり間違ったことではなかったのだとあらためて思います。これがなかったなら、彼らは画一的なカリキュラムのなかに埋もれて、彼らの潜在的な能力にふさわしい学習をする機会をもつことなく卒業していくことになったでしょう。
 この授業にもいろいろと問題があります。改善をはかりながら、楽しみを持続できるようにしたいと思っているところです。
   
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