高専実践事例集 |
工藤圭章編 高等専門学校授業研究会 1996/7/20発行 |
||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
U もっと知りたい
|
|||||||||||||||||
●歴史を見直す学生達(139〜154P) わかるから面白い 久松俊一 木更津工業高等専門学校助教授 |
|||||||||||||||||
私が高専に来て1年生に歴史を教えることになったのは、前任者が西洋史の専門家だったということもあるが、それ以上に、私自身の希望でもあった。日本史を専攻したわけでもない私が、なぜ1年生に歴史を教えたいと思ったのか。 一つには受験勉強ですっかり歴史嫌いになった、私の高校時代の苦い思いがあったことである。結局私が歴史と出会ったのはずっと後の大学時代のことで、それも大学の授業にはほとんど触発されることはなく、ずいぶん遠回りをしてしまったのである(と言って、それがマイナスというわけでもないが)。 こうした体験に加えて、哲学者林竹二氏の言葉を導きの糸としつつ、私なりの歴史の授業を創り出したいという大それた考えをもったことである。宮城教育大学の学長時代から、長年にわたり、全国の小、中学校や定時制高校などで授業行脚を続けてこられた林氏の、小学校から大学に至る日本の教育の荒廃との果敢な戦いに、私は大きな勇気を与えられた。多かれ少なかれ受験勉強を強いられてきた1年生たちに、学ぶ喜び、知る喜びをほんの少しでも経験させてやることはできないものか、そんな授業をやれないものか、これが私の出発点であった。
|
|||||||||||||||||
歴史とはなにか |
|||||||||||||||||
私の授業は、歴史とはなにか、歴史を学ぶとはどういうことか、という話から始まる。今ではもうすっかり変色した一冊の新書を取り出して、「歴史とは、現在と過去との対話である」という一節を板書して、これは一体そういう意味であるかと問いかける。歴史の専門の先生から見れば、中学を卒業したばかりの学生に、こんな抽象論議から入るなどは似っての外だとお叱りを受けると思う。事実、学生たちはたいていはきょとんとしている。そこでさらに、「過去は、現在の光に照らして初めて私たちに理解できるものであり、過去の光に照らして初めて私たちは現在をよく理解できる」という一文を提示する。授業の最初の数時間はこのことの意味を説明することに費やすのである。 この文章は30数年前、私に歴史を学ぶ意欲を持たせてくれたE・H・カーの『歴史とは何か」の一節であるが、当時の私が目から鱗がとれる思いであったように、私は学生たちの歴史に対する固定観念を何としても揺るがしたい、と思ってきた。ではその固定観念とは何か。それは、歴史とは過去の事実についてのできあがった知識、完結した知識であり、従って、歴史を学ぶとは、その知識を、所与のものとして覚えることである、という観念である。実際、学生たちの半数くらいは、歴史は嫌いだという。その理由を一人一人聞いてみると、大部分は暗記するのが苦手だという答えが返ってくる。わたしはまず、歴史の学習とは、年表や人名を暗記することではない、年表は、常に脇に置いて利用するものであり、時には年表を見ながら想像をめぐらすものであって、私の授業ではそういう暗記は必要ないと宣言する。そうすると、多くは何かほっとして、肩の荷を降ろしたような顔つきになったように見える。この「覚えなければならない」という呪縛から解放するだけで、どれほど学生たちは生き生きとしてくることか。 次に私は、一本の直線上に過去、現在、未来を書き、その相互間係について話す。過去を知って初めて現在を理解できるということ、すなわち過去が現在を規定しているということは比較的理解しやすい。。しかし、「過去は現在の光に照らして初めて理解 できる」ということは、理解が難しいし、説明に工夫のいるところである。 人間の社会というのは無数の事実から成っているのだから、過去の事実といってもむしろ知られていない隠れた事実の方が多い。そして、知られている事実についても、どういう事実に注目し、どれを選びとるかによって、そこに描かれる過去の姿は異なってくるのである。つまり、過去の事実をどう評価するかによって歴史像がちがうわけである。ではなぜそうした評価の違いが出てくるのか。それは過去を研究する歴史家の、現在に対する姿勢の違い、あるいは現在をどう見るかという違いから生まれる。例えば、明治維新についての講座派と労農派の対立について言えば、同じように事実に即しながら明治維新の評価が分かれたのは、彼らの現在(明治以来の日本の国家と社会)にたいする態度、評価の相違から出てくるものである。ここで野呂栄太郎や羽仁五郎、服部之総といった歴史家などにも触れながら、こうした研究者の対立を飲み込んで、過去の事実を隠したり、歪曲したり、さらにはフィクションと事実をすりかえたりしながら、皇国史観になだれ込んでいった大戦前の国史教育を例に挙げながら、週去の事実は、必ず現在の目を通して捉えられた事実だということを説明するのである。現代の歴史においても、現在の日本に対する姿勢の連いが、事実の評価の違いになるということは、例えば、文部省検定の高校教科書が韓国や中国から大きな非難を浴びた事件や、政府高官の度重なる失言問題など説明のための例には事欠かない。中学校や高校の教科書でも太平洋戦争時代の日本について、アジア諸国と日本とではどれほど大きな違いがあることか。 この序論とも言うべき、歴史とは何か、を締めくくるのは、当時雑誌に掲載された西ドイツ大統領ワイッゼッカーの敗戦40周年記念の演説「週去に目を閉じるものは現在に盲目となる」である。これをプリントして、1時間かけて学生たちと一緒に読む(それは今でも毎年おこなっている)。
|
|||||||||||||||||
驚いた最初の授業
|
|||||||||||||||||
さて学生たちは私の授業をどう受け取ったであろうか。私は毎年二度の中間試験には小論文形式のテストを行っている。そしてたいていは前期中間に小論文の後に感想文を書かせている。 ●歴史は暗記がほとんどでつまらないと思っていたが、暗記ではないというのを聞いて安心したし、興味をもった。 ●私はこの高専に来ていろいろ驚かされたことがありますが、そのひとつにこの社会の授業も入っています。なぜ驚いたかというと「歴史とは何か」というテーマで4時間あまり使ってしまう授業をしたからです。これは、普通高校では絶対といっていいほどありえないことでしょう。 ●私が高専に入ってきて歴史をするのはわかっていたけれども、こんな授業をするとは思わなかった。こんな授業というのは、はじめの3時間は「歴史について」語り、あんなに深く入り込んで、と思った。 ●高専に入ってから「歴史」というものの重要さや大切さを最初の方で学びました。E・H・カーなどの言葉は本当にすばらしいものだと実感しました。いろいろな例を挙げて説明してくれる今の授業はとても楽しく充実しています。 私がこの「歴史とは何か」で話したことは、その後の授業の中で、折に触れて、授業内容と関連づけて話すことにしている。例えば、ずっと後で出てくる井伊直弼についても、その終わりに、つい数年前に調査が行われた井伊家文書をとりあげた新聞記事を紹介して、極悪人とされてきた井伊直弼像が、明治政府のいわゆる薩長史観による歪みであることを説明したり、といった風にである。
|
|||||||||||||||||
歴史を学ぶ意味 |
|||||||||||||||||
ところで、二年前の中間試験の前に、永野法相の「大東亜戦争は侵略戦争ではなかった」という発言問題が起きた。そこでこの機会に、初めて小論文テストに「歴史を学ぶ意味について」という出題をした。学生たちには全く予想外の出題だったらしく、みんな苦労して書いていたようであったが、自分で考え、自分の言葉で書かれた答案は、実に瑞々しいものが多かった。 ●中学時代に歴史を嫌った理由の一つは、過去のことは今の自分には何の関係もないと思っていたからだ。今を生きていくのになぜ過去をほじくり返して、年号や人名とやらを覚えさせるのか、それが生活してゆく上で必要なことなのかという疑問をずっと持ち続けていた。・・・しかし、最近は少し違った見方がでさるようになってきた。高専に入って最初の歴史の授業で、「お、これは何かが違う」と思った。今までの自分の考えをすべて捨てることはできないが、歴史を学ぶことには意味があるように思えてきた。誰の言葉だか忘れたが、「過去に盲目な人は現在にも盲目になる」というようなニュアンスのことを言った人がいたように思うが、その言葉に心を動かされた。そもそも歴史というものは人間が残してきた足跡みたいなものだと思う。後戻りはできないが、方向を知ることはできる。人間が方向を失ったとき、それは間違いなく人類が滅ぶときだ。方向さえしっかりおさえておけば何もこわくない。ただ人間だから間違いもある。過去にも何回も間違いを起こしていると思う。その時は正義でも、後になると悪ということもある。だから後ろを振り返り振り返り、過去の事実を受けとめて前に進んでいくことが重要だと思う(この後永野発言について書いているが省略)。歴史は今とつながっている。切り放すことはできない。だからこそ、過去に目を開いていけば現在というものがより見えるようになるのだと思う。逆に、過去に目を開かないものは、現在を見失うと思う。歴史を学ぶ意味は、現在をよりよく見るためだとぼくは思う。 ●僕は、歴史を勉強することによって、過去に人間がして来たこと、過ちや新しい思想などを学んできた。過ちは、歴史を学んでいくことで、何でこんな愚かなことをしたのかという疑問をもたせ、そして興味を持ち、探求心をくすぐられる。僕は、物事には何でも探求心を持つことは大切だと思う。なぜなら、その事について、どのような利点、理由があるかを考えたりすることは、自分でも楽しいし、その事の真の目的などが理解できたとき、充実感やうれしさでたまらなくなる。だから僕は、物事を考えることは大切だと思った。そして、歴史を学ぶということに、ただ、人名や年表を覚えていればいいという考え方に、僕は同感できない。歴史を学んでも、ただ覚えていくだけでは、あまり面白いものではないからで、やはり、自分が疑問をもったことを、自分が納得するまで考える方がずっと良いと思う。次に新しい思想は、今まで自分が見てきた価値観と別の見方、考え方を教えてくれる。今までの考え方から新しい考え方に変えてみると、新しい刺激や感覚を自分で楽しむことができる。人間はいつも新しい考えをもっていた方が良いと思う。いつまでも古い考え方をしていると、様々な偏見を生みだし、もったいないと思う。僕は、歴史を学ぶということは、自分自身を学び、変えていくことだと思う。歴史を学びつつ、様々な考え方を取り入れて、自分を改造することが歴史を学ぶ事だと自分は思う。だから、歴史は、ただ覚えるだけの教科ではなく、自分自身の改造のための教科であり、人生を考えさせるための教科だと思う。 これらは機械と電子制御の学生の文章の一部であるが、その後の成績を見てみると、二人ともクラスのまんなかか少し下の学生である。読み返してみて、こんなにも深い感受性と理解力に改めて感銘を受けた。いわゆる成績の差などというものがいかに仮象であるか、ということを如実に示していると思う。もう少し引用を続けることにしたい。 ●歴史を学ぷということについて、僕はたいへん疑問に思うことがあります。それは「なぜ歴史を勉強しなければならないんだろう」ということです。この疑問を歴史の先生に聞いてみると、こんな答えが返ってきました。「理科や数学だってなぜ勉強するのかわかるか?一般常識なんだよ。」その時は納得しましたが、何回も何回も考えている内に、なんか違うような気がしてきました。確かにそうかもしれないけれど、歴史のことを好きでないという人は皆常識外れなのかということになってしまいます。この疑問はこのまま解決せずに中学校生活を終えてしまいました。高専に来て、初めての歴史の授業で、この疑問を解くカギが見つかりました。授業で「歴史とは何か」という本を書いたE・H・カーのことを知ったからです。E・H・カーの書いた本の内容は理解しにくかったのですが、授業でくわしくやってくれたのでだいたいわかりました。なぜ歴史を勉強しなければならないのかという疑問の僕なりの意見は、現在、過去、未来という3つの光のもとを探しているという、いわゆる探検をしているような気がします。3つの光のもとには財宝があり、それを見つけだすために勉強しているのだと思います。 ●小学校の時から歴史を勉強するのが嫌いだった。……自分は歴史が好きではないといったが、もし本当に興味を持ったらどうだろうか。一つのことを発見して、もう一つのことを発見して、それらがいろいろな面でつながりをもっているとわかったら、誰だって興味がわくと思う。そして、それほど面白いものはなくなるだろうと思う。だから、そういった面白さを追求するために歴史を勉強するのだろうと思った。E・H・カーという人は歴史についてこんなことを言っていた。過去に照らされて現代がある。つまり、過去の今までの経過がなければ現代がないということだと思う。だから、今生きている自分があるために過去の歴史を知っている必要があるという事だと思う。また現代があるから末来もある。いずれ自分の生きているこの時代の歴史を勉強する人たちがでてくる。そういった時に自分たちのことを良い時代だと思われるようにするのは自分たちだと思う。だから現代のために歴史を勉強して、未来のために現代を生きていかなければならないと思った。このようなことのために、歴史を学ぶ必要があると、自分なりに思った。 ここに紹介した学生に限らず、多くの学生たちが自分の無惨な体験に照らして文章を書いている。だから、まるで乾いた土に水が浸みこむように、深いところで理解したことがその言葉の端々に現れていると思う。楽しい、面白い、嬉しくなる、充実する、考える、発見する、探求するといった言葉が頻繁に出てくるのである。これらは、学習が何かのための(受験の)手段ではなく、無知、偏狭からの自己解放であるということを、彼らが実感として受けとめていることを示している。学ぶことが喜びであり、考えることは楽しいことであり、発見することに充実感を得るということである。
|
|||||||||||||||||
わかるから面白い |
|||||||||||||||||
私の授業は、この2年間は、ほぼ次のような構成で、週2時間の通年授業を行っている。
なお、先にも触れたように、中間テストは小論文形式なので、前期中間テストの前には、1時間とって、小論文の書き方を指導し、また採点基準と採点方法についても説明することにしている。試験後には、A評価を与えた答案の中から、何人かに、クラスの前で答案を読んでもらうことにしている。(こちらから指名するときは、同じ評価でも、バラエティに富むように配慮し、発表が終わる毎に必ず私のコメントを加えることにしている。発表が終わると、大きな拍手のおこるクラスもある。) 私が授業で心がける事といえば、私も授業を楽しむということである。「先生は授業をとても楽しそうにやっているし、説明の仕方がうまく、そしてなにより面白い。」「先生の嬉しそうに笑った顔が私は好きです。これからも変わらず、わかりやすい授業、そして素敵な笑顔を私たちに提供してく下さい。」といった感想を見ると、私も嬉しくなる。 さて、10年以上にわたる授業で、私は毎年学生たちに感想を書かせてきた。私の授業内容や方法は、彼らの文を紹介することで、ある程度想像してもらえると思う。 ●歴史の授業は楽しいです。それは先生が良い意味で先生らしくないからです。 授業が詳しくて内容が濃いから面白い、という感想を書いた学生は、非常に多い。しかし、その事をより的確に表現すれば、「深く追求している」とか「深く掘り下げている」ということになる。では、深く堀り下げるとはどういうことか。それは、「一つの事柄をいろいろな角度から見る」「歴史的事実を細かく分析する」「きちんと筋が通っている」(=論理的)ということである。彼らは意識すると否に関わらず、物を知るということはどういうことか(認識の構造)を掴んだのであり、知るということは、事実の羅列を覚えること(=暗記)ではなく、事実の連関を知ることであることに気が付いたと言ってよい。こうして、彼らが授業を「面白い」と言うのは、知ることの喜びを表現していることに他ならないと思う。 私の授業は確かに狭い範囲しかやらないので当然批判もあろうかと思うが、私は何よりも知る喜び、学ぶ喜びを味わうことが大切だと思う。そうした喜びを知った学生は、自ら学ぶ意欲をもつのだと思っている、かつての私がそうであったように。
|
|||||||||||||||||
UP ↑ | |||||||||||||||||
menu |