高専実践事例集 |
工藤圭章編 高等専門学校授業研究会 1996/7/20発行 |
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U もっと知りたい
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●先生たちが気づかない(126〜138P) わたしはこれを学びたい 藤枝孝善 沼津工業高等専門学校教授 |
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はじめに |
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医者が患者から多くを教えられるように、教師もまた、学生から多くを学んでいる。 これは、授業の記録ではない。授業以前の問題、授業の周辺の問題をまとめたものである。授業を受ける側の授業以前の問題を堀り起こし、今なお増え続けている学業不振の問題について考えてみることにする。ここでは、成績不振の学生、レポートを出せない学生、欠席の多い学生に直に接してきた経験を通して、学業不振の学生の背景に横たわる問題を問い直してみたい。 自分たちが日頃このような学生を前にして、授業をしていることを自覚すれば、おのずと授業も変わるのではあるまいか。なお個人のプライバシーを守るため、記述には細心の注意を払った。このような学生の語る問題は、重くたいへん厳しいものがある。
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これが学びたかった |
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彼は小学生のころから、理科に興味をもち、4年生の時に、父にパソコンを買ってもらった。中学生になって、理科がますます好きになり、物理に興味を抱くようになった。独力で物理の勉強を始め、その専門書を買ってきて読んだ。すると、分からぬことがいっぱい出てきて、それを先生に質間した。「今は、そんなことをやる時期じゃない」といつも言われた。 高校進学を迎えて、志望校を決める時がきた。彼は迷わず高専にした。「普通科高校よりは好きな勉強ができそうだ」と判断したからである。 面接で志望理由を聞かれ、高度なコンピューター技術の勉強をしたいから受験した」と答えたら、「そんなことはずっと先のことだよ」と言われた。 高専での授業に、彼は期待していた。とりわけ、プログラムの時間は彼の最も期待したものであり、得意なものだった。はじめのうちは、彼にとっては初歩的な内答ばかりで退屈した。そのうち、自分の期待する内容になるだろうと思っていたが、他の学生との違いを感じるばかりで、しまいには期待しなくなった。 気の合う級友はいたが、友達は少なかった。だから、暇さえあれば情報処理教育センターのパソコンの前にいた。ときには夢中になって、授業に出ないこともあった。このように、彼の関心はコンピューターに偏っていて、気の進まぬことはしないわがままな学生に見えた。2年の学年末には、成績不振で進級が危なくなった。担任のアドバイスもなかなか通じず、彼のレポート提出の悪さには定評があった。そういう行動が、我々の目には「無気力で、何を考えているのか分からない学生だ」と写った。 結局、留年が決まり、親子相談となった。 ところが、その日の彼は、これまでとは全く違っていた。知的で、考えもしっかりしていて、自分の身に起こったことをクールに見つめていた。彼は、中学時代から何度も「今これを勉強したい」という意思を示したが、「そんなことは今しなくていい」とその芽を摘み取られてきた。その積み重ねが諦めにつながり、投げやりで、無気力な反応として現れていたのである。 知らなかった裏面を聞かされてショックだった。彼は「このままでは自分に合った勉強はできない。今は大学に行きたい」という結論を出し、退学を決めた。
我々はA君に応えることはできなかった。しかし、第2の彼を出さないようにはできるだろう。 |
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二人が分けたもの
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B君とC君は、クラスでも上の方で入ってきた。2人ともまじめで、素直な人柄である。中学では成績も上位にいた。この2人が並ぶ様に成績不振に陥る。 高専での2人の学校生活は、クラブ活動に打ち込み、寮生活も毎日が林間学校のように楽しかった。受験がないから勉強には気がのらず、分からぬことは積み残した。つまずきは最初の定期試験で始まった。「なんと難しいんだろう」「みんなはどんな勉強をしてるんだろう」と思った。さんざんな成績がついた。以後、そこが2人の指定席になり、なかなかはい上がれなかった。 2人とも出身校はやや辺地ではあるが、高専の授業について来れぬとは思えなかった。 B君は中学時代、学校から帰ると近所に下宿する先生がいて、その人にその日のおさらいをしてもらっていた。だから分からないことはなく、クラスの上位にいることができた。授業中は、ただノートをとるだけでよく、下校後のおさらいでその日の授業内容を理解できた。 C君にも支えがあった。冬休み前に、課題を出した時のことである。C君だけが提出期限を守れなかった。彼の課題は、近くの「金山の廃坑調査」であった。呼んで聞いてみると「2回ほど調べに行ったが2日とも公民館が休館だった」という。彼のいう2日とは、天皇誕生日と元日であった。彼は「祭日に公民館が休むのを知らなかった」という。「どうするつもりか」と聞くと、「お母さんに調べてもらう」と答えた。ここですべてが飲み込めたのである。「この子は、自力で何かをやることができないのではないか」、「母親に頼っていたのではないか」と察知した。「君はいつ頃からお母さんを必要と感じるようになったのか」と聞くと、「小学校4年生から」と答えた。彼は、母が後ろにいていい成績をとることができた。提出物はいつも褒められたという。作ったのはもちろんC君であるが、母の力が大きかった。受験勉強にも母親の影響はうかがえる。手をとって教えられたわけではないが、母親の存在は大きかった。ほどよいタイミングで夜食を運んできて励ましてくれる母は、彼の戦力だった。ところが、この彼が母からの自立を求める時がきた。親の薦める普通科の高校を嫌い、高専を受けたのである。 このB君とC君は、高専にきたことで背後にあった支えを失った。そのために成績不振に陥る。B君は、おさらいをしてくれる先生がいなくなり、C君は夜食をもってきて励ましてくれる母がいなくなった。 B君は、「留年するぞ」の影におびえながら、「がんばります」を繰り返してきた。だが、力尽き、進路変更を決意した。重圧から解放された彼に街で会った時サバサバしていた。専門学校へ行って工業デザイナーとしての技術を修得し、今は社会人として立派に働いている。高専の級友たちとも友情で結ばれている。 一方C君は、3年で留年はしたが、母からの離陸に成功した。自力で勉強するコツを身につけて踏ん張った。自宅から自転車で遠距離通学を始めてからは、ますますたくましくなり、成績もクラスの上位にあがった。 B君は進路変更して、そしてC君は自立することで、成績不振から解放された。2人のケースは、勉強への自立、拘束からの解放の重要さに気づかされる。塾や家庭教師に頼り切った学生は2人と同じ苦しみに出会うだろう。自力で勉強できないタイプは、高専には向かないのではないだろうか。成績不振や提出物のよくない背景には、貴重な情報が隠されている。 |
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目標が見えない |
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現在は、若者が何をめざしたらいいのか、何になれるのかなかなか見つからない時代である。 D君は、長いトンネルの中で悩んだ末、3年で中途退学した。目標を見つけたからである。 小学生の頃は、絵が得意で、4年生で自作のマンガを書いた。中学生になると、まわりが受験にのめり込む中で、彼も高いハードルをめざした。進路相談の時、「これぐらいの力ならこことここに入れますよ」と診断され、高専を受けた。そして合格した。家族は大喜びした。 ところが、高専に入学したことで、彼の目標は消滅した。受験に受かることが彼の目標だったからである。初めは、「工業間係だから、ハンダづけをするぐらいは嫌いではないからいいか」という気持ちでいた。しかし、彼を待っていたのはハンダづけなんかではなかった。志望した学科も自分の適性を考えての選択ではなかった。「何のために高専を受けたか」が漠然としていた。「難しそうだから挑戦してみた」にすぎなかった。 こうして目標のない学生は、当然、学習意欲も、授業への集中力も減退する。突っ張りで自己主張し、何度か生活指導を受けた。そして学年末には成績不振に苦しみ、留年した。しかし、保護者は「学校に預けていたのに」と合点がいかない。期待が大きかった分、親はパニック状態になった。白宅通学になって、親の期待は諦めに変わる。目標のないわが子に、「勉強しろよ」ということの空しさを感じる。悪いことに、仕事の問係上、父親が在宅するようになると、顔を合わせる時間が増え、親子のいさかいも絶えなくなった。その結果、彼は家を出て一人暮らしをすることを決意する。下宿生活を始めても目標は見つからない。親が気にしている欠席が目につくようになるにつれて、学業不振科目が増えていく。「学校は好きではないが、このまま社会に出たくはない。高専卒の資格は手にしたい」という考えは残っていた。しかし、「3年終了は無埋かもしれない」 と言われ出すと、目標のない彼はもう踏ん張りきれない。 そんなある日、アルバイトを終えて、食堂で雑誌をめくっていると、あることがひらめいた。「彫刻のようなものをやってみたい」。粘土を買ってきて、時間の経つのも忘れて造形に挑戦した。イメージ通りのものはなかなかできない。しかし、手ごたえは感じた。「創作の世界は無限だ」と思った。目標のようなものが見えてさた彼は、美術関係の本を買ってきて読んだ。その道へ進むには美術関係の専門学校もあるが、美大に行くのが一番いいことが分かってきた。 今の彼にとってだいじなのは、それで食えるかどうかよりも、希望がもてるかどうかである。美大に入るには、当面、大検に受からなければならない。今度は本当にやりたい目標への挑戦である。その費用を考えると厳しいものがあるが、進まなければ道は開けない。 D君は、退学を決意し、心機一転大検をめざす一歩を踏み出した。当然、アルバイトをしながらの予備校通いであるが、費用の一部は家からも仕送りしてもらえることになった。親もこの選択に同意し、わが子を支援するほかはないのである。やっとトンネルの出口が見えてきた。
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自分の道はほかにある |
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高専生は、16歳で自分の進路を限定する。入学と同時に工業系技術者になるための教育が始まり、大部分の学生はそういう自分の立場に疑いをもつことはない。 3年になったE君は、本格的な専門科目の授業が増えた一方で、自分の進路に疑問を抱き始める。「自分の進路選択はこれでよかったのか」と。外国帰りのF先生の授業を受けるようになって、「自分の生きる道は他にあるのではないか」と思うようになった。その気持ちは時間とともに膨らんでいき、「報道機関で仕事をしてみたい」という心境に固まっていく。そしてその年の12月、退学して、大学受験をめざすと言い出した。家族の意見は、父は「本人がその気なら賛成」、母と大学生の兄は「バカなことはやめろ」であった。高専生は、中学時代はそれなりの成績を収めている。だが、高専に入ってみると、定期試験を重ねるごとに差がつき、順位が固定していく。下位に定着し、赤点を抱え込んだ学生は、現実逃避症候群に襲われる。こうした学生の多くが進路変更を考える。 E君はそのころ、「砂をかむような授業の多い中で、F先生の授業は自分に命を与えてくれた。自分は世界に出て仕事がしたい。特派員のような仕事がしたい」と言っていた。 F先生は、「自分も記者を志したことはある。この時期、大学を受けるとなると、センター試験には間に合わない。目的に合った大学に行くためには、浪人するか、4年に進級して夜予備校に通うかだ。どうせなら高専を卒業して、それでも自分の気が変わらなければ大学に行けばいい」「文部大臣の女性秘書官になった友人も、40歳にして若い時からの夢であったアメリカ留学を実行した」と話して聞かせ、人生はじっくり着実に積み上げるべきだと諭した。 彼は、高専に残って夜予備校に通う道を選択をした。そして、高専を卒業するところまできた。級友たちが就職活動をする時期に、彼はそれをしなかった。級友たちが大学工学部への編入試験を受けた時、彼は文系の大学編入試験を受けた。だが、それはうまくいかなかった。1年からの大学入りの道もあったが、彼は大学編入の道を選んだ。だが、壁は厚かった。E君の進路変更は、工科系の学生が文系の大学へ入ることがいかに難しいかを示している。 進路選択はたいていの若者が悩む間題である。E君は、中学を卒業する時に最初の進路を選択し、高専の3年を終わる時に2度目の進路を考えた。そして高専を卒業する時に、その2度目の進路選択を実行に移し、大学の門をたたいた。E君の進路の変更は、厳しい選択であった。
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誰も振り向いてくれない |
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高専生は、16歳で入学し、20過ぎて卒業して行く。人生において最も不安定でしかも最も成長する時期である。大人の世界へと自立するこの時期は、家族の愛情がとても必要な時である。 G君は、1年の夏、学校をやめたいと親を困らせていた。夏休みが明けてその症状はますますひどくなった。授業中にマンガを読んだり、奇声を上げたりする不可解な行動をとった。ある日の放課後、「自衛隊に入りたい」といってきた。しつこく言うので自衛隊に電話すると、「明日からでも来ていい」という返事である。自衛隊の話は彼のモヤモヤの発露であった。彼が突然、「死んだらダメだよね」と言い出した。彼は「鮎壺の滝」の上に立ったというのである。これは尋常でないと受け止めた。彼の心は、相当混乱していた。 彼の家は、曽祖母・祖父母のいる大家族で、二重の嫁・姑問題で揺れてきた。父と祖父も対立し、祖父母との別居と同居を繰り返した。G君親子が核家族で暮らした時のことである。幼稚園時代、仕事に出ていた母が迎えにくるのを、妹の手を握りしめて何時間も待った。二人は置き去りにされたと何度も思った。それが心の傷となっていく。再び大家族で暮らすようになった時、仕事を続けた母が辛い思いをして実家に帰った。やがて母は離婚して家を出ていく。母を追うなと言われて、兄と妹は心の傷を深めた。小学校4年のことである。中学になるころ、父が再婚した。妹は義母に馴染めずぐれていく。それを兄の彼がかばった。義母に相次いで子供が生まれた。兄と妹はさらに忘れられたような気持ちになった。二人は家族に目を向けて欲しかった。仕事人間の父には、二人の子どもの心の叫びは届かなかった。妹は家族を困らすことで自分に注目させようとし、兄は「高校へは行かない」と言って注目させようとした。「高校ぐらいは出ておけ」と父があわてた。父が振り向いてくれたのである。G君は、中学で無理だと言われた高専を受け、合格した。こうして兄は家族の気を引くことはできたが、妹はやっかいものだった。 そして、彼が高専の寮に入ると、妹は別れた実母に引き取られた。クラスの中では何かと目立つ行動をとった。みんなの気を引くためである。やがて黙殺されて学校もつまらなくなる。彼には奇妙な正義感があった。いじめをとめたことでグループを敵にまわすことになった。殴り合いもした。寮の居心地が悪くなった。それをだれにも言えなかった。学校をやめたくなった。家族はだれも取り合わなかった。一番辛い時だった。父が祖父と対立してまた別居した。そういう状態の父に「学校をやめたい」と言った。相手にされなかった。「自分はいったい何のために生きてるのか」「いてもいなくてもいいのか」と空しくなった。授業中にマンガを読めば親が呼びつけられると思った。いっそ死んで困らせてやろうかと思った。これは完全に心の病気である。父は息子と娘に幼いころからさみしい思いをさせてきたことをやっと悟った。校長の紹介でカウンセリング治療が始まった。治療のため特例として下宿が認められた。月に一、二度、父が来て息子と枕を並べて寝るようになった。治療の甲斐もあってG君は急速に回復した。「だれも振り向いてくれない」というモヤモヤからも解放された。下宿生活が彼を自立させた。彼は留年することなく進級した。 5年生も無事に終え、自ら選んだ職業について社会生活を送っている。
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おわりに |
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学業不振は、簡単には抜け出せない。留年は緊急避難策ではあっても、真の解決策ではない。真の解決策は、適応へ向けての努力と進路変更である。学業不振の前兆は、成績の急落、提出物の悪さ、欠席の増加などで、こうした前兆の周辺を探って行くと問題の本質が見えてくる。 A君の場合は、自分の期待に学校が応えてくれない例、B君とC君の場含は、自力で勉強ができない例、D君の場合は、打ち込む目標を失った例、E君の場合は、進路選択に疑間を抱いた例、そしてG君の場合は、心の病気の例である。ここでは扱えなかったが、帰国子女の問題もある。こうした問題に対して、進路変更は解決策の一つとして重要である。しかし、適応策を見つけることをなおざりにしてはならない。 解決の糸口の見えなかった問題に道が開けてくると、本当にうれしいものである。問題が解決するときは、ちょうど、怪我が治癒する時と同じように自力で解決していく。教師の力で解決するのではない。問題を解決させるのは、本人のもっている「成長ホルモン」なのである。それを引き出すのが教師の役割かも知れないが、こうした体験が学生から学ぶ時である。 これからは決して特殊例ではないこと、今後も増大することを強調しておきたい。 |
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