高専実践事例集
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1996/7/20発行

   


  
こんな授業をやってみたい

   
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   まえがき (2〜5P)                   工藤圭章 前沼津高等専門学校校長     
 


 
高専実践事例集『こんな授業を待っていた』を平成6年3月に刊行してから2年余り経過した。この事例集は平成5・6両年度に亘って文部省教育方法等改善経費の交付をうけて行ったプロジェクトの、「高等専門学校における人文科学・社会科学の総合化に関する研究」に参加した各高専の一般科目担当の教官が、総合化教育の研究と並行して、それぞれの高専で個々に実施した普段着の授業風景を紹介すべく刊行したものである。

  「高等専門学校における人文科学・社会科学の総合化に関する研究」プロジェクトについては、平成5年3月に中間報告書を、また、平成6年3月に最終報告書をまとめ問題提起を行っている。しかし、これらの報告書だけでは、教育現場サイドの生の素材についての記載が不十分ではないかとの意見が、数人の参加教官の中から出されたこともあって、プロジェクトの数次の検討集会で紹介された各高専で実施されている、もしくは、検討されている具体例を集めて別冊として刊行しようとしたのが、前記の高専実践事例集『こんな授業を待っていた』を企画した発端であった。幸いこの企画については、刊行後寄せられた各地の高専教官からの激励を受けたことによって、賛同を得たものと安堵した。

  沼津高専ではこのプロジェクトの実施中に、まず実験的に総合化教育に取組み、のちにそれを定着して一般科目教育の活性化に努めた。実際に学生の反応は多様であった。当初は人文科学・社会科学担当の教官で総合化教育を始めたが、翌年度から自然科学担当の教官もこれに参加している。ともあれ、総合化教有はその授業に学生が共に考えながら参加できるようにすることが肝要なのである。業を授けるという語からは教育が見えない。総合化教育というと情報の与えすぎが懸念されるが、学生の消化を越える情報提供は単に業を授けるだけのことで教師の自己満足に週ぎない。総合化教育では学生自身にそこに潜むエッセンスを選びださせることが必要なのである。情報の与えすぎは総合化教育に決して繁がらず、少ない情報でも学生に興味を持たせ、教師が意図するものを引き出させてこそ、総合化教育による学生の自己教育力の育成に連なるものと考えたい。

  最近、理工系分野における創造的人材育成方策について、大学教育関係者において検討が論議されている。創造的人材の育成は大学だけがその検討を担うだけでなく、当然、理工系学生の教育を担当している工業高等専門学校においても等閑にしえない問題である。とくに、いまなお産業界において高専卒業生の一般教養教育の修得度が低く見られがちであり、高等専門学校での創造的人材育成がそれが原因で必要ないと思っているのだとしたら、それは大きな誤りだといわねばなるまい。

  すでに、前回の「人文科学・社会科学の総合化に関する研究」プロジェクトに参加した教官から指摘があったように、高専における総合化教育は一般教養教育の少なさを補完するため、教官各自が考えた教授法を活用し、学生とともに学習することにあった。こうした観点から前回刊行した高専実践事例集を補足するために、事例集の続編の企画が教官の間からおこり、新たに前回参加以外の教官の賛同もえてこの小冊子の刊行を行うこととなった。今回も収録した実践事例が多岐に亘っている。前回の延長でもあるが一方新しい展開もある。いずれにせよ、独自の教材の作成による教官の創意が汲み取れよう。ご参考いただければ幸いである。

  前回、教青方法等改善プロジェクト代表をつとめたこともあって、その任に不適ながらも今回の刊行に当たって、ふたたびこのまえがきを記した。本書を企画し、また、ご執筆いただいた各位にあらためてお礼申し上げたい。

平成8年7月
  前教育方法等改善プロジェクト代表
      沼津工業高等専門学校名誉教授  工藤圭章

     
 
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 ●編集仲間の意見交換

 こんな授業をやってみたい

(11〜22P)

   
   1.生きた教材をぶつけたい

   視野を広げる

   

 S先生がタイで感じたことである。

  タイのサムイ鳥は、昔からヨーロッパ人のリゾート地として知られている。ここでS先生はメイドつきの王侯貴族のような三日間を過ごした。それから首都バンコクへ戻ったとき、その違いに驚いた。そしてチャオプラヤ川の水上生活者を見たときはショックだった。実に貧しい。

  この国には、一握りの金持ちと大勢の貧しい人々がいる。それも、とても貧困な人達である。日本からはこの国にODAその他で相当な援助が行われている。その援助の効果はこの貧しい人達には及んでいない。途上国では、国家レベルの開発と大衆レベルの生活改善は必ずしもかみ合っていない。では、このような人達に対して協力できることは何だろうか。

  工業文明は、時には豊かな自然を破壊したり環境を汚染したりするが、生活を便利にする。S先生は、工業文明がタイの貧しい人達にもたらす恩恵はまだまだ多いと思っている。そこで学生達にタイでの体験を聞かせ、「君たちは技術的にこのような人達のために何か協力できるものをもっているとは思わないか」と訴えた。彼らは真剣なまなざしでこの問題を受け止めた。

  ナマの話は、 学生たちの心をとらえる。

   外国人を教室に呼ぼう
   

 T先生の国際教養の時間のことである。

  その日の授業は知り合いのハンガリー女性を呼んでいたが、学生には知らさないでおいた。初めにハンガリーのイメージを書かせてみた。学生達は、東欧のことなどほとんど分かっていなかった。そこへハンガリーの先生が入って来た。流暢な日本語での自己紹介に学生達は目を自黒。

  専門は心理学で、日本へ来てからいろんなところで教えている。「分からないことはインデックスで探せ」というのが彼女のやり方である。この講義では、 ハンガリーの音楽を聞かせたり、地図を見せたりしながらハンガリー語やインデックスの使い方を教えた。しまいには、自国のサラミを配ったりしながら順々ににハンガリーのことをおさえて行った。そしてどのようなイメージに変わったか一人一人に書かせた。学生はわずかな時問でハンガリーに興味をもってしまった。鮮やかな手法である。ナマの外国人をぷつけるというT先生のもくろみはみごとに成功した。

  今東欧ではボスニア紛争の終結に向けての努力が続けられている。T先生はできればセルビア人を呼んでみようと思っていた。そうすればセルビア人が決して人殺しなんかでないことが分かると考えた。セルビア人は、時間の都合が合わず呼べなかった。「来年はモンゴル人を呼んでみようかと思う。モンゴルのことなんか知らない学生が多いはずだから、学生達はきっと驚きますよ。そ してわずかな時間で多くを学ぶでしょう」とT先生は言う。日本には世界中から外国人が来ている。外国には行けなくても、このように外国人を呼ぶことでその代替ができる。

  外国人を呼ぶときに謝礼の問題がある。普通は非常勤講師の枠の中で賄えるが、急に呼んだら謝礼が出せないことがある。非常勤を呼ぷときは手続きが面倒だ。こういう規制緩和も必要だ。イスラム圏を教えるときなどには、留学生を利用する手もある。 このような生きた教材として外国人をぶつけていけば、きっと学生は世界に目を開くはずだ。

  2 学生とかみ合わせたい

   フィードバックする

   

 授業をしていると、当然、学生とのギャップが出て来る。「もっと分かるようにやって欲しい」と言われることもある。つらいものがあるが、こんな時はどうすべきか。

 考えてみれば、教える者と教わる者がいて、双方がかみ合っていないことはしばしば起こりうる。ベテランでも駆け出しの教師でも起こりうる間題である。学生を責めてもはじまらない。目標が達成されなければ、教材に問題があったのか、教え方に間題があったのか、あるいはクラスに問題があったのか、 原因をつきとめねばならない。放置すれば、ギャップは大きくなる一方である。 原因がわかれば、次の戦略が考えられる。教材を身近に感じられるようなものを選定したり、柚象的な概念でも目に見えるような形に展開を工夫したり、作業を入れたり、討論をさせたりするなど、やり方を変え学生とかみ会うようにする。教育書を読んだり、同僚の意見を聞くのも解決策である。ギャップこそ教師を学生に近づけるきっかけである。

   やる気に応える

   

 『ソフィーの世界』の一節に、「先生たちはどうしてどうでもよいことばか りやっているの?」という箇所がある。彼女は今、「わたしはだれ?」「どこ からきたの?」という問題で頭がいっぱいなのである。彼女は「もっと根源的な」ものを求めているのである。

 素直で先生の言うことをよく聞くと思われている高専生は、「何々を学ぴたい」という問題を抱えていないだろうか。それとも「こんな問題を先生にぶつけてもどうもなりはしない」と諦めてるのだろうか。

 われわれは、学生の根元的な問題を正面から受け止めているだろうか。「そんなことは、今やらなくていい」と言ってのけているのではないだろうか。教師からみればどうでもよいこと、後でやればよいことでも、彼らにとっては 「それが今だいじ」という問題はある。そのことで頭がいっぱいの時には、自分とかけ離れた授業はどうでもよいものであろう。そのような問題をぶつけられるチャンネルを開けておかねばならない。学生と同時代人として生きて行けば、それを受け止めてやれる。

   新しい世界を見せる

   

 何事にも感動を示さない学生がいる。一方で、退屈しきった学生もいる。しかし、彼らは授業中何かをして時間をつぶしている。その典型が居眠りと私語である。授業の進め方にも原因はある。知ってることを習うのは退屈であり、 サッパリ分からないような講義は聴く気になれない。しかし、新鮮なことには心を動かす。知ってたはずのことが自分の考えと違っていたら驚きである。これまでの認識を塗り替える、新しい世界を見せてやるところに学習は成立する。 「今までに聞いたこともない話」を聞かせたり、「思ってもみなかった切り口」をやってみせたり、新説や新しい学問、最先端のことを教えたりすれば、学生はのってくる。T先生は「学ぶ気にさせる」授業に苦心をされた結果、学生に 「もう一度。先生の講義が聴きたい」といわせている。

 

3 役に立つ授業とは決して実用的なものばかりではない

   反発もだいじにしたい

   

 太宰治にウエイトをかけたS先生の授業に、四年生のT君は背を向けている。太宰治の授業に「抵抗を示す学生はもっといても不思議ではない」と先生は一言う。先生は、「太宰だけをやりすぎたかな」という反省もしている。しかし、これには別の見方もある。「裸の王様」の少年である。T君がそうかどうかは分からないが、合点のいかぬことに異を唱える存在は貴重である。S先生の太宰の授業には定評がある。クラスの大半の学生が新しい読み方を体験し、S先生に共感を抱いている。その一方で、別の認識をもつ学生もいた。T君である。T君は、「S先生は教祖だ」「自分を信者にしないでほしい」「事実だけを教われば十分です」という。

 これに対しS先生は授業で勝負に出た。T君はS先生のタイの話には興味深げに耳を傾けた。この手法は、イソップ物語の「北風と太陽」の応用である。

 S先生は、「T君がいたためにその後の授業の展開が変わった」という。

 

 原理・原則こそ役に立つ

   

 K先生は「古典なんかやって何の役に立つのか」という疑問をぶつけられた。専門学科からは文学などよりも「漢字を教えろ、文章力をつけろ」という注文を受ける。M先生は「原理・原則をやって、それがどんな役に立つのか」という疑問を没げかけられた。いずれも一般教科が専門教科とかみあっていないという問題である。一般教科には技術者教育の一環という配慮は当然必要である。ただ、実用的なことをやっていれば、本当に役に立つのだろうか。直ぐに役に立つこと、実用的なことを求めることは「原理・原則」を曖昧にし、ひいては指示待ち人間、マニュアルがないと動けない人間を育てることになりはしないか。

 M先生は、「原理や基本、思考の枠組みの方をだいじにしたい。それが高等教育にとって必要であるし、長い目で見れば役に立つ。原理・原則をしっかり教えることがないと、学問は涸れてしまう。高専の学生は、直ぐに役に立つものを期待していないだろうか。一般科目のスタンスはそれとは違いうものでなければならない」と強調する。

   複眼的な見方がだいじ

   

 「こういう見方もあるぞ」という勉強を重ねたい。O先生はおとぎ話を通していろんな見方のあることを体験させている。決して「こう読みなさい」とは言わない。いろんな文献を示すことで、「そんな見方もあるんだ」と感じとらせている。

 T先生は、「同じ題材を学んでも、受け止め方は十人十色である。とくに結論の出せない間題を一つの見方をもって決めつけるのは危険である。西欧から見れば十字軍は正義であるが、イスラムから見れば全く違うように、両方の目から見せるべきである。討論や意見交換をだいじにしたい。複眼的な見方は大事である」と主張する。

   感情にも訴える

     O先生は大きな意味で「役に立つドイツ語教育」をやっている。それは、「知識」を詰め込む「左脳」教育ではなく、「知恵」を育てる「右脳」教有を目指しているからである。大脳生理学の植村研一先生によると、あることを教師が初めから教えるのではなく、学生に自分で「発見」させると、それは長期記憶として右脳に入り、今後別の間題も解決する能力がそこで育つという。O先生はこ れをドイツ語教育に応用して、文法規則等を学生に自分で発見させる授業を進めている。大脳生理学によるとまた、感情の中枢と記憶とは非常に密接な関係にあるので、泣くか笑うか楽しいか、とにかく「感情を伴う教育をしない限り無駄である」という。ドイツ語の授業で学生が最も楽しそうにするのは、ペア練習等で実際にドイツ語を話してみる時である。そこでO先生は、ペア練習こそドイツ語を学生の長期記憶に叩さ込む絶好のチャンスとみなし、その充実を図ろうとしているのである。


   評価を授業に合わせる

   

 授業を今までと違ったやり方をしたときに、評価のやり方を変えないでいいか。今、O先生は「発信型の会話形式の授業をやっておきながらこれをどう評価するか」で悩んでいる。そして口頭試験の評価法を導人した。

  歴史を教えているH先生は、高校時代、歴史が嫌いだった。暗記を強調されたからである。それがE・H・カーの『歴史とは何か』に出会い感動してから歴史に目が開かれた。今一年で歴史を教えているが、「歴史とは暗記もの」と思い込んでる認識をひっくりかえすことに努力している。E・H・カーやマルクスを使って、「歴史とは何か」を3時間かけて歴史学習を始め、「現在」ということに対する関心を呼び起こしている。学生には新鮮に映るようである。評価は、期末テストは普通のテストをやるが、中間テストは論文テストを行う。論文テストは恣意的であってはならない。五点刻みで百点満点にする。論文の書さ方を一時間かけて指導し、よい作品は読んで聞かせている。

 学生にとって成績は死活間題である。成績のつけ方で授業への対応の仕方が決まる。記述式は、いささか教師の恣意で配点に自由度をもたせることができる。ある学科の学生は記述式を歓迎し、ある学科の学生はそれをあまり好まない。一点にこだわる暗記型の学生には記述式はいやがられる。個々の教官の評価の仕方を統一するのは危険であるが、学生に評価法を分からせる配慮もだいじかも知れない。

 A先生は、「評価は先生によって違っている」という。これからは「どういう感性をしているか」「どういう意欲をもっているか」も評価すべぎである。これには記述式評価が重視されねばならない。人間の評価は、一点、二点で差をつけられるものではない。「これくらいで中だ」とか、「もうちょっとで上だ」というのでいいのではないか。「輪切りの状態を断つ」という意味での記述式評価 も採用されるべきであると主張する。

  4 学習は個において成立する

   全員学習をめざす

   

 テレビでフランス語教室のレッスン風景をみた。十数名の生徒を相手に個別指導スタイルでレッスンが進められていた。みんなが眼を輝かせて聞いていた。

 少人数教育のメリットは大きい。教師の目の届く教育ができるからである。高専でも、40人を二つに分割すれば教育効果は大きいのだが、できないものだろうか。

 一斉授業においても学習は個において成り立っている。クラス40人のうち数人だけが聞いているというような授業は空しい。個が学ぽうとしていてこそ学習が成り立っている。そのような授業戦略をだいじにしたい。

 K先生は、最初の出会いに工夫を凝らす。先生は新入生の最初の授業でハッタリをする。教室へ入るやいなやアメリカ人を演じ続ける。学生達が完全に外国人教師と思い込んだところで、突然、出身の東北弁でしゃべる。「その落差がたまらない」という。学生達は次の時間を期待する。先生がどのような仕掛けをしてくるか期待するのである。先生はその期待に応え続けている。

  5 一般教育のステイタスが上がってこそ高専生に幅がでる

   必修を見直し選択を増やす

     必修科目は教師の論埋、学校の論理で実施される。学生には学びたい科目とそうでない科目がある。こうした学生の二−ズに応えるのが選択制である。必修科目は基礎的な学力をつけるものが多いが、高学年になると選択制が実情に合っている。高専の教育課程は、低学年で一般教科が厚く、高学年で薄くなっているが、教科によっては高学年でやるべぎものがある。楔形の教育課程を弾力的に見直してはどうか。選択制は学生の意欲に応える点で拡張が望まれるが、教室の問題や同時開講からくる時間割の過密問題、呼んで来る非常勤講師と手当ての間題をクリアしなければならない。


   一般教育は技術者教育を補完する

   

 技術者を育てる高専教育は、専門教育と一般教育で成り立っている。一般教育は、「基礎学力をつける」ことと「教養をつける」ことを分担し、技術者教育を補完する。しかし、現実の一般教育は十分に機能していない。それは「一般教育に期待するものは何もない」という発言の中にうかがえる。このような発送の技術者教育は幅がない。本来、一般教育は技術者教育の幅を広げるものでなければならない。

 職業人、技術者にとって、「教養」と「モラル」はきわめて重要な要素である。就職して十年も経つと、その違いが人間を分ける。教養のある技術者、高いモラルをもった技術者は、これからの成熱した社会にとってはもっとも必要とされるものである。いったん、競争社会に入っていくと、自分の専門分野以外の領域へ目を向ける余裕はなかなかない。だから学生時代にそのきっかけを身につけることがいかにだいじかが分かる。

 一般教育の役割が機能するような事例を実践的に示していく必要があろう。

 本稿は、編集会議での討議内容をまとめたものである。十一人の出席者が、自らの実践を通して抱いている所感を出し合ったものであるから、矛盾する部分もある。その違いが本書の中身を特徴づけているといえる。本書は、実践事例集『こんな授業を待っていた』に次ぐ続編であるが、元教育方法改善プロジェクトのメンバーに新しい仲間が加わって、内容も豊富になった。本書が高専の教育の現状を世に紹介する資料になれば幸いである。        (文責 藤枝孝善)

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