高専実践事例集
工藤圭章編
高等専門学校教育方法改善プロジェクト
1994/03/24発行

   


  
こんな授業を待っていた

   
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T人文・社会・外国語系の授業がいまおもしろい
  2. おもしろ授業戦略

 

 ●学生に間かせる日本史授業の工夫(80〜94P)

  仏さん(像)の世界           田畑 勉   群馬工業高等専門学校教授

     
   

  この講義は、ここ4〜5年、2年生の「日本史」の授業の1こま(90分)として、「奈良国家と大仏」の後(夏季休暇前頃)に行ってきた。こうした「仏さん(像)」講義をとりいれたのには、次のようなキッカケがあった。5〜6年ほど前、3年生の社会見学旅行を引率して奈良に行き、東大寺の南大門を通りかかった。周りの数人の学生をからかうつもりで、「仁王さま」を指さし、口を開けている方、口をとじている方をそれぞれ何の形と言うのか聞くと、勿論、知る学生がいるはずがなかった。そこで、「あ−」と言ってみろ、自然に口が開くだろう。いいか、口を開いている方は「あ−」の形だから、「阿形」と言う。今度は、「うーん」と言ってみろ、しぜんに口がとじるだろう。口をとじている方は、「う−ん」の形だから、「吽形」と言う。「阿吽の呼吸」と言うのを聞いたことがあるはずだ。相撲の仕切りのときに聞いたことを覚えている者もいるだろう。向かいあう力士の呼吸がもっともよく、ぴたっと整うことだ。これは、世の中、片方が口を開いている時、片方は口をとじているのが最も自然で、良い状況を教えている姿だ。講義をしている時に、お喋りをする者を、私が怒るのはいかに自然で、良いことか分かったかと、学生をけむに巻き、大仏殿につく頃には、私もそんな話をしたことを忘れたようであった。帰校1ヶ月後の頃、教室でがやがやと賑やかに何かを決めている時、司会の学生がたまりかねたのか、「阿吽の呼吸」を知らないかと話しだしたのを通りすがりに廊下で耳にし、思わず赤くなって逃げだしたが、部屋にもどってから、学生が良く覚えていたことに驚いた。これは「仏さん(像)の世界」のような、それこそ地味な、お線香臭そうな講義でも、組み立て方や話し方によっては、学生に聞いて貰えるのではないかと言う思いがした。特に、3年生が、社会見学旅行で行く京都・奈良で、仏像を見る機会があり、また、授業で使用する教科書の口絵・挿絵でも、仏像が良く目につくことをも考えると、なんとか講義に仕立てる工夫を強く思った。

  それにしても、学生がまったく身近に感じない、ほとんど興味・関心をもつことも期待できないと見られる題材であるだけに、講義は学生が聞きやすく、受け入れやすいものにすることに最重点をおいた。このため、講義は仏さんの本来もつ意味すらも変えることを辞さない、乱暴な内容からなり、授業として許される下限にあるかも知れないと思っている。それでも、こうした形にせよ、学生に聞かせておいた方が良いとの思いが強く、これまで授業に取り入れてきた。

 

   講義再録
   

  皆は、これまでに、あんがい色々な仏像の写真を見てきたと思う。そこで、今日は、あまりまとまった話として聞く機会もないと思われる、「仏さん(像)の世界」(板書)の講義をする。「仏さんなんて、俺たちに関係ないよ」等と言わんばかりの、いやな顔をしない。さすが日本も、仏教が入ってきてから1500年近くなるだけあって、話を聞くのもいやそうな顔をする皆でも、無意識のうちに、あんがい仏さんについて知っていることがある。せっかく知っていることなら、少し整理し、きちんとした「知識」として、頭にいれておいた方が良いと言うのが、今日の講義だ。

  さて、学食の定食にもA・Bがあるように、世間さまの物事には、梅松竹と色々なランクがあり、仏さんの世界でもその例に洩れず、偉さによる4つのランクがある。その最上位にいるのが如来、その次が菩薩、その下が明王、最下位が天部の仏さん(板書)だ。いよいよ、ややこしい嫌な話になって来た等と思わない。なぜなら、皆がちゃんと知ってることを、ただ順位づけしただけなんだから。

  いいかい!1番偉い如来、「知らない」等とは言わせない。お釈迦さん、聞いたことがないか。南無阿弥陀仏、初めて聞いたか。そんなことないはずだ。正式に言うと、お釈迦さんは釈迦如来、南無阿弥陀仏の阿弥陀仏さんは、阿弥陀如来だ。見ろ、皆、如来を知ってるじゃないか。次に偉い菩薩も知っているはずだ。お地蔵さんや観音さま、生まれて初めて聞いたなんて言う者はいないだろう。いいか、お地蔵さんは地蔵菩薩、観音さまは観音菩薩と言うのだ。やっぱり、菩薩もちゃんと知ってるだろう。その下の明王となると、「今度こそ聞いたことがない」と言いたそうな顔つぎだな。明王を知っている者は少ないかもしれないが、全然いないはずがない。成田山のお不動さんを聞いたことがないと言う者は手をあげろ。なんだ、皆、聞いたことがあるじやないか。いいか、お不動さんは、不動明王と言うのだ。皆が聞いたこともないと思っている明王でも、ちゃんと1つぐらい知ってるじゃないか。1番偉くない天部の仏さん、「今度は間違いなく聞いたことがない」と言う顔をしているが、正月の縁起ものに良く出て来る七福神、例えば、大黒さまや弁天さま、今初めて聞いたのか。そんなことはないだろう。大黒さんは大黒天、弁天さまは弁財天と言う、天部の仏さんだ。そのほかにも、天部の仏さんの四天王なども聞いたことがあるはずだ。こうして見ると、無意識のうちに、皆もあんがい仏さんを知ってることが分かるだろう。私はそれらの仏さんをただ4つのランクへ順に当てはめただけだ。いいかい。「仏さんの世界」と言う講義だからと言って、ここで、覚えなければならない等と言うものは、ほんのわずかしかないと言うことだ。

 では、次には、4つのランクの仏さんの見分け方に移ろう。いよいよ、ややこしい、お線香臭そうな話になりそうだ等と言う、嫌な顔をしない。そんな難しい話ではない。1番偉い如来の姿は、お釈迦さんが修行して、悟りをひらいた時のさまがモデルになっている。如来を見分ける特徴は、沢山あり、例えば、どんな遠くに居る人の救いを求める声でも聞き漏らさない、肩まで垂れる大きな耳をしてるとか、人を救い上げる時に指の間から落とさないように、指の間に「縵網相」と言う、水掻きがついているとか、悟りをひらいて無欲になっているので、なんの飾りもない、薄い、粗末な衣を1枚着ているだけとか等、色々あるが、これらは、触ることができそうなほど近くに寄らない限り、見て取るのは難しいので、全部忘れていい。覚えて置くべきことは、たった1つ。1番偉い如来は、頭の中に、慈悲や徳や智恵等が1杯つまりすぎたために収まりきれなくなって、頭の上が大きく膨れあがっている。つまり、頭の上に「肉ケイ」と呼ばれる、さらに、ひとまわり小型の頭があるので、頭が膨れてるのが如来と覚えておく。これで充分。

 次いで偉い菩薩は、釈迦がまだ王宮で生活していた頃の王子の姿と言われ、如来ほど悟りをひらいていないので、まだ完全に無欲になりきれず、いくぶんとも欲、例えば色気等も残っていると考えよう。さすがに、如来に次ぐ仏さんであるだけに、すました、さとり顔をしているが、髪の毛を結ったり、冠をかぶったり、胸飾りや腕輪等の装身具をつけたり、少し厚手の衣等を着飾っている。だから、菩薩は、いかにも仏さんと言う顔をしながらも、装身具で体を飾る等、おしゃれをしていると覚える。「3人よれば文殊の智恵」と言う譬えを知っているだろう。私や皆でも3人集まって必死に智恵を寄せ集めると、菩薩のなかでも、智恵のある文殊菩薩ぐらいの賢さになれる、つまり菩薩になれると言うことだがその意味では、霞を食って生きている仙人ではない、生身の私達の頭も、けっこう捨てたものではない。事によると菩薩になれるかなと言う、尊いものであることが分かるだろう。ところが、如来となると、写真の頭を見てみろ。頭に無数の小さな縮れて丸まった髪の毛が見えるだろう。あれは「螺髪」と呼ばれ、1つ1つの頭を表していると思えばよい。とすると、いかに菩薩等より、多くの人の頭が集まった者が如来であるかが分かり、さらに修行して悟りをひらいた如来と菩薩の差が分かると思う。如来は、ちょっとやそっとでは人が近づけない、いかに偉いかが分かるだろう。それにしても、なんとなく菩薩の方に親しみを感じるのは、人に近いからだと思う。

 明王は、これが仏さんのうちに入るのかと思われるような、牙を剥き出した恐ろしい顔をし、手には武器をもち、背中に激しく燃え上がる炎を背負っているので、1目見てすぐわかる。1番下の天部の仏さんは、まだ修行を始めたばかりで、やっと人間から1歩出たぐらいのため、人と同じような顔つきをしてるのが特徴。悲しみ、怒り、喜び等、人なら誰れでもするような表情をしているので、見ていて親しみがわき、1番早く好きになれるように思う。教科書の写真の阿修羅像、顔が3つ、手が6本あるのは別にして、その体つきや、何となく悲しげな顔はまったく人と同じだろう?

 こうして見てくると、如来は頭が膨れ、菩薩は装身具をつけ、明王はすごい顔をして炎を背負い、天部の仏さんは、われわれと同じ表情をしていることから見分けられ、これぐらい覚えるのは、皆の頭をもってすれば、そんなに難しいことではないだろう!これだけで、皆も4つのランクの仏さんを見分けることができるようになったわけだ。

 そこで、さらに、仏さんがどのような世界をつくっているのかを見ることにしよう。仏さんの世界は、大きくわけると3つの世界から成り立っている。

 第1は、人が生まれて来る前の世界があり、これをなんて呼ぶのか。いくつかの呼び方があるが、もっとも単純に、生まれて来る前の世界だから、「前世」だ。第2は、「前世」から送り出された人が、現在生活している世界だから、なんて言うのか。現在生活している世界だから、そうだ!「現世」だ。それじゃ、「現世」の次に、人に確実にやって来る世界は、次世か。どうもゴロが悪いので、もっと素直に考え、かならず来る世界だから、そうだ「来世」だ。3つの世界をまとめると、こういうふうになる(板書)。そして、それらの世界に、色々な役務を分担する仏さんがいるわけだ。しかし、仏さんの世界は、きわめて論理的で、改めて色々覚えねばならない等という、厄介なものではないので、さあ!気楽に先に行こう。

 それでは、まず、「前世」には、どういう仏さんがいるのか考えよう。いいかい!「前世」から、人を長い、時にはつらいこともある人生と言う旅に送り出すのがヒントだ。今のような文明が発達した時代でも、外国等に長く居る旅行に出発する時、空港で、親しい者は最後になんと言って見送る。「お土産忘れるな」等という薄情な奴は別にして、なんて言葉をかける?そうだ!これだけの文明時代でも、「体に気をつけて、元気で」と言うだろう。テレビの水戸黄門が最後の場面で出す三葉葵の紋がはいった「印籠」はなんだ。あれは薬入れだ。水戸黄門ほど偉い人でも、旅に出る時には、ちゃんと自分にあった薬を持って行くくらい、旅の病気はこわいものだ。今ですら、健康を気遣うぐらいだから、まして、昔の仏教が出来上がる頃と言えば、いうまでもなかった。だから、「現世」への旅に人を送り出す「前世」の中心となる如来は、旅立つ人の健康を心配して、この薬を飲んで行けとか、この薬をつけて行けとか、この薬を持って行けとか等の手配をする、薬を持っている「薬師如来」なのだ。薬師如来の見分け方は、頭が膨れている如来のなかで、薬を持っていなければならないことから、「薬壷」と呼ばれる、薬を入れた瓶を持っている。座っている場合は、下腹部で両手を組んだなかに置き、立っている場合は、上げている右手ではなく、下げた左手にぶら下げている(身振り,手振り)。要するに、頭が膨れていて、薬の瓶を持っているのが薬師如来、これが「前世」の中心の仏さんだ。

 その薬師如来には、手助けをする脇侍と呼ばれるお供が左右についている。お供は、「現世」へ送り出した人が暗い裏道にそれたり、迷ったりしないように、昼も夜も、人が歩むべき明るい、まっとうな道を照らして指し示す役割をもつ、日光・月光両菩薩がついている。この薬師如来と日光・月光両菩薩のセットを「薬師三尊(像)」と言う。その周りに、薬師三尊(像)のスムーズな働きをみだそうとする悪い鬼達を、追い払うために守備についているのが、12体からなる、鎧甲・武器で武装した天部に属している12神将だ。12と言うのは、昔の時間の12支を指し、つまり少しの油断もなく24時間守備体制をとっていると言うことだ(板書)。奈良へ行った時には、素晴らしい、薬師寺の薬師三尊(像)、お供を欠くが、新薬師寺の薬師如来と守備する12神将をぜひ見るように。

 次に、人が誕生と言うかたちで送り出されてきた「現世」では、中心になるのが「釈迦如来」だ。「現世」に生きる生身の人は、私も皆も、そうそう良いことばかりするわけではない。むしろ、ろくなことをしないので、釈迦如来は、あっちにも、こっちにも、間違った道を行きそうな者が沢山いるため、そうした者に何時でも手を仲ばして救いあげることができるように、最も自然に掌を開いている。立っている場合は、上げている右手、だらりと下げている左手、いずれもただ指を伸ばして掌をひらき、座っている場合は、そうした両手を下腹部で軽く組んでいるだけで、ましてや、邪魔になる、なにか物等を一切もっていない(身振り・手振り)。だから、釈迦如来の見分け方は、頭が膨れている如来のなかで、なにも持たないで、ただ自然に掌をひらいた手をしているところにある。

 釈迦如来の手助けをする左右のお供は、不届き者が多くて釈迦如来が忙しすぎるため、時には、その代理となって救いに駆けつけ、その場で色々判断しなければならないので、頭が良くないとつとまらない。だから、お供には、非常に賢い普賢菩薩と非常に智恵のある文殊菩薩がついている。両菩薩のうち、代理となって救いに駆けつけるさい、そう急ぐことはないが、大量に救ってこなければならない時には、普賢菩薩があたり、大量ではないが、急いで行かなければならない時には、文殊菩薩があたると思えば良い。そこに、普賢菩薩は大量運搬に適した象に乗り、文殊菩薩は走るスピードが早い獅子に乗っていることがあると覚えよう。この釈迦如来と普賢・文殊両菩薩のセットをなんと言うのか。そうだ!釈迦三尊(像)だ。別に難しい話じゃないだろう。釈迦三尊(像)は法隆寺、普賢菩薩だけなら、小振りながら岩船寺、文殊菩薩だけなら、巨大とも言えそうな、安倍の文殊院のものを見ておきたい。

 ところで、「現世」では、釈迦三尊(像)の働きを邪魔しようとする、悪い鬼が沢山いるので、天部の仏さんが2重・3重にもおよぶ万全の守備体制をとって、釈迦三尊(像)を守っている。釈迦三尊(像)の左右には、あまり聞いたこともないと思うので忘れて良いが、武装した梵天と帝釈天がいる。それでも、帝釈天の方は、映画「男はつらいよ」の主役の寅さんの「生まれは柴又、帝釈天で産湯をつかい」と言う、毎回得意のセリフのなかに出てくるのを聞いた者も居ると思う。思い出さないか。今度、テレビで上映した時には、注意をして見ること。その帝釈天の指揮下に、その周りの四隅を固めているのが、武装した四天王、さらにその周りを、四天王のなかの別名毘沙門天とも言う、多聞天の指揮下に、その他大勢の天部の仏さんが守っているという、念の入れ方になる(板書)。特に、武装した天部の仏さんは、釈迦がまだ王宮で王子として生活していた頃の護衛兵をモデルにしていると言われている。梵天と帝釈天は、東大寺の法華堂にもあり、四天王は東大寺の戒壇院の最高傑作を、ぜひ見るように。

 さて、いよいよ、人は死して極楽へ行くか、地獄へ行くかと言う「来世」に移ろう。「来世」の極楽では、中心になっているのが「阿弥陀如来」だ。阿弥陀如来は、頭が膨れている如来のなかで、やっとたどり着いた人を迎えて、「もうここまで来れば大丈夫だ」、「良く来た。やったぞ!」と言うわけで、両手とも、かならず親指を人指し指・中指・薬指のどれかとくっつけて丸い輪をつくって、合図をしていると思えば良い。立っている場合は、上にあげている右手も、下げている左手も指で輪をつくり、座っている場合は、指で輪をつくったまま、下腹部で両手を組んでいる(身振り、手振り)。だから、阿弥陀如来は、頭が膨れて、指で輪をつくっていると覚えておけば、すぐわかる。

 阿弥陀如来の手助けをする左右のお供には、その勢力の至らないところなしとする勢至菩薩と観音菩薩がいる(板書)。このうち、非常に良く知られているのが観音菩薩だ。本校の周りの道端にも、観音菩薩の石像がずいぶんあるだろう。帰りに、良く見ておく。しかし、如来ほど偉くもないのに、なぜそんなに人気があるのか。それは、観音菩薩がウルトラマンなど顔負けなほど、33にも姿を変身して、極楽にたどり着こうとする人を救うことにあると思えば良いだろう。例えば、11の顔をもつ11面観音の姿になって、救いを求める人を探し、救うべき人が見つかると、千本の手をもつ千手観音の姿になって片っ端から救いあげ、すこし遠いと、紐をもっている不空羂索観音の姿になって、紐を投げて救いあげるからだと思えば良いと思う。しかし、あまりにも多くの姿に変わるため、一体、どれが元々の観音菩薩なのかわからなくなることから、これが元々の正しい観音菩薩だと言う正観音、つまり、同じ音であることから聖観音と呼ばれる観音さまもいる。聖人と気取っているわけにはいかない、多くの人にとっては、「現世」で、そう良いことばかりして来たと言う訳にいかないので、極楽の池の蓮の花のうえに座って、「良く来たな」等と合図をして迎えてくれる阿弥陀如来よりも、時には、救いの努力を色々尽くしてくれる観音菩薩の方がありがたく、人気が高くなるのも当然だろう。この阿弥陀如来と普賢・観音両菩薩のセットを、そうだ!阿弥陀三尊(像)と言う。極楽には、もはや、阿弥陀三尊(像)の働きを邪魔する鬼達がいないので、守備をする体制はないわけだ。ぜいたくにも、梅松竹と差がある、どんな品位の人にも対応しようと、阿弥陀如来を9体もそろえている京都南部の浄瑠璃寺も、機会をつくって、ぜひ見に行きなさい。観音菩薩は、色々なところにあるので、自分で調べるにしても、東大寺の法華堂の不空羂索観音、法隆寺の百済観音、聖林寺の11面観音などは、ぜひ見ることを勧めたい。

 もう一方の地獄では、その中心が閻魔大王になり、これも奈良の白毫寺あたりで見ておくと良いと思う。

 その上、さらに3つの世界を統合するのが大日如来だ。この如来は、他と異なり、髪の毛を結って、宝冠をかぶっているので、菩薩と間違えやすい姿をしている。だから、大日如来の見分け方は、なかなか難しいところがあるが、昔、忍者が化ける時に、胸の前で片方の手の指を、もう片方の手の指で握って印を結ぶ(手振り・身振り)ように、胸のところで、左手の親指を中にして握り、人指し指だけ伸ばし、右手の親指と人指し指をくっつけ、残り3本の指で左手の伸ばす人指し指を握って、まっすぐ立てる「智拳印」と呼ぶ手の形をすることが多いことだ。心許ないが、周りに守備する五明王(板書)がいるので、分かることもある。左手に綱をもち、右手に剣をもつ不動明王は、どうしても仏の道が分からない人の、そのひん曲がった性根をふん縛り、たたっ斬ることから、勇ましさを通り越えた、恐ろしげな姿をしているが、残る四明王はさらにものすごく、例えば、降三世明王などは、顔が3つ、それぞれ武器をもつ手が8本もあると言う、すさまじい姿をしている。こうした五明王は、京都駅の近くの東寺(教王護国寺)に素晴らしいのがある。

 以上のようになっているのが、仏さんの世界だ。しかし、こう言うと、皆はもうすぐに、自分達が知っている弥勒菩薩やお地蔵さんや大仏は、一体、どこにいるのかと言いたそうな顔になっている。

 これについて話すと、実は、釈迦如来の死後、これを釈迦入滅後と言うが、現在も勿論ふくまれるのは言うまでもなく、仏教が段々忘れられて廃れて行き、「現世」が荒れはてるようになる。そして、そうした状況が極まる56億7000万年後に、「現世」に弥勒如来となって現れ、人を救う役割をもつのが弥勒菩薩だ。だから、弥勒菩薩はそれまでに、菩薩から如来になるために、天上で修行している最中で、色々悩んだり、考えごとをしていることから、ロダンの「考える人」みたいな恰好してるとともに、まだ、どこにも配置されていないわけだ。とすると、56億7000万年もの長い間、人を導いて救ってくれる仏さんがいないとすれば、いかにも少し薄情すぎるのではないかと言うことから、その間、釈迦如来ほど偉くもないし、力もないが、それでも釈迦如来の何分の1かでも代役を担って、働いているのが地蔵菩薩だ。だから、大変どころか、気が遠くなりそうなほど長い間、人が「現世」で頼れるのは、地蔵菩薩よりいないことから、人はどうか会えるように、見落とされないようにと、あちこちにお地蔵さんをつくるわけだ。観音さまとならんでお地蔵さんの人気の高い理由がわかっただろう。最後に、大仏は東大寺等の華厳宗では、廬舎那仏とか、廬舎那如来とも言い、いわば釈迦如来の先生のようなもので、千の大釈迦と百億の小釈迦を育てる役割をする。つまり、そんなに沢山の釈迦が存在するようになれば、これにまさる「現世」の安全はないと言うことになり、したがって、大変尊ばれ、人気も出ることになるわけだ(板書)。弥勒菩薩は、奈良の中宮寺か、京都の広隆寺のものをぜひ見ておきなさい。大仏は、言うまでもなく、奈良の東大寺で見よう。お地蔵さんは、下校の途中の道端の石像に沢山見られるので、改めてじっくり見ておこう。

 どうだ!仏さんの世界、大分わかったろう。試験に出すから、もう1度、今日の講義を見直し、頭に入れておくこと。終わり。

 この講義は、大仰な身振り、手振り、オーバーな表現、冗談めいた言い回しや、分かりやすい身近な譬え等を多く取り入れることを特徴としている。講義の再現をできるだけ心掛けたが、そうした手法は、とても表現出来ない部分が多くあることから、不十分なものになったことを、お詫びしたい。なお、こうした学生に喜ばれそうにもない講義でも、特に苦労することなく、1こま(90分)の授業として維持することができたので、万が一にも、ご参考になることがあればと思い、恥をも省みず、書き記した。本校(群馬高専)では、3年生の社会見学旅行が廃止になるので、このささやかな講義もいささかの役目を終えたと思われるので、明年度からとりやめる心づもりでいる。

 

 
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