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高専実践事例集 |
工藤圭章編
高等専門学校教育方法改善プロジェクト
1994/03/24発行
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こんな授業を待っていた
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T人文・社会・外国語系の授業がいまおもしろい
1 学生いきいき
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●英字新聞を使った授業(51〜64P)
楽 し け れ ば こ そ
勝呂譲
沼津工業高等専門学校教授
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教材として学生用英字新聞を使い始めてから20年近くになる。いまだに飽きない。週二時間だけという今の時間割を残念に思う。英字新聞の効用はいくらでも挙げられるが、要は「おもしろいから」使っている。教材がおもしろいから授業が楽しい。少なくとも私にとっては。
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動 機
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検定教科書を卒業した上級生用に新学年の教材を決めることは毎年強いられる煩わしい作業だった。市販の高校生用副教材、大学教養課程用語学テキストは質、量ともに豊富に揃っているが、工業高専という環境で、他ならぬ私という教師が使うに適した教材にはなかなか巡り合えなかった。よし一年間快調に授業が進められても、同一教材での二年目は既に新鮮さを失っている。何とかラクをして、しかも、楽しく教えられる(願わくば教育的効果も少し望める・・・)教材はないものかと 1探し求めていた。
学生時代から親しんでいたスチューデントタイムズに思い当たった。発行元の記者から多少の便宜を受けて、冒険ではあったが、五年生2クラスに年間購読させた。授業はうまく行った。教材と私との相性が良いようであった。その後、カリキュラムの変更があって、対象が五年生→四年生→三年生と変わり、週2時間のみの授業となったが、頑固にSTを使い続けている。
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分 析
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私…教えることが好きである。雑学豊富。ウンチクを傾けたい。世相に関心。野次馬精神旺盛。当意即妙臨機応変。毒舌揶揄冷笑風刺、虚言詭弁機智諧謔。怠惰躁鬱執拗短気、強情性急優柔独善、冷酷厚顔無知放埒。依怙地傲慢卑屈不遜、無責任神経質情緒不安定、大声性悪放言下品。
学生…語学そのもの及び一般教養に対しての知的関心は薄い。下学年で既に基本的な語学力は身についている筈だが、過半の者は英検二級と三級の間のレベル。惨憺たる語彙力、貧困な表現力。学習意欲一部の者に見られず。世情にうとい。新聞、TVに接する機会が少ない。カリキュラム過密。出席状況良好。
ST紙…週週刊。タブロイド版、24ページ。ただし純粋に英語だけの部分は全体の五分の三。あとは日英語の混じった解説、和訳、広告等。ニュース記事が四ページ弱。特集レポート、エッセイ、コラム、インタビュー、漫画、外国雑誌紹介、通信員便り、英会話指導、映画シナリオ、洋楽ヒットチャート、歌詞解説、比較文化論、作文教室、模擬テスト、Q&A、通信板、投稿、パズル、旅行記、写真特集などから成る。英語のレベルはかなり高い。一年間授業でとり組んだあとでなければ英検二級の者でもなかなか読みこなせない。懇切丁寧な語注が用意されているが、語学的な難しさだけでなく、ニュースや論評の背後にある事情を知っていないと理解困難な場合が多い。即ち、学生用新聞とは言いながら(既に「週刊ST」という名前に変わっているが)、記事の文章の内容、難度は普通の英字新聞とほとんど変わりがない。金曜日発行の日付けで、四日前の月曜日に配達される。前週の大ニュースはほぼカバーされている。ナマのものである。一部200円。
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授 業 展 開
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教室で全てを消化するには、週八時間以上の授業が必要であろう。二時間枠では四分の一ほどに手をつけられるに過ぎない。あとの貴重な情報は大部分読まずに捨てられている。もったいない。授業でもっとやりたい。当初は週三時間であったが、一週間で全ページを読んでくることを要求していた。教室で突然「今日はここをやる」と指定してさっさと授業を進めた。「予習をやってありません」とは言わせなかった(現在も同じ方針)。授業でとりあげない箇所からもテストに出題した。能力のある学生たちだったが、あまりに苛酷ということで、次第に要求度を下げていった。今では配布する際に、次の二回の授業で読む記事を指定し、そこの単語を調べて来さえすればそれ以上の要求はしないことにしている。テストも、教室で消化した範囲からのみの出題である。それでも普通の教科書の、二、三倍の分量になるので、試験前につのる不満は大きい。週二回のうち一回は原則としてニュース記事を扱う。大きな記事なら一本、小さなものなら二、三本を一時限内に読む。授業時間内に強引にでも読了する方針である。最近では、甲府の女子行員誘拐殺人事件、角川春樹コカイン密輸事件、イスラエルとPLOの暫定自治協定調印、政府の緊急コメ輸入決定など、最新の重大事をとりあげた。世の流れと並行して進む授業である。眠っているような高専生からも関心を引き起こさずにはおかない(と期待する)。
まずワンパラグラフを教師が模範朗読する。そのあと元に戻ってフレーズ毎にコーラスリーディング。指名してひとりワンセンテンスづつ読ませ、意味を言わせる。その際なるべく直訳に徹し、語注に与えられているこなれた訳をオウム返しにしないよう注意する。直訳も、できるだけ英語の並び方に沿って訳すよう心がけさせる。和訳が完全な日本文になることを要求しない。テストでもたとえば、Russia announced Oct.21 that it would suspend plans to dump a second load of redioactive waste into the Sea of Japan.を「ロシアは放射性廃棄物の二回目の積み荷を日本海へ捨てるという計画を中止すると十月二十一日に発表した」と、きれいな日本語に翻訳しても高い得点はとれない(和訳のみを丸暗記してくる要領のいい奴がいるのである)。あくまで授業で指導しているような訳し方、即ち
ロシアは を10月21日に発表した
↑ それは計画を中止するであろう(ことを)
↑ 放射性廃棄物の2回目の積み荷を捨てる(という)
↑ 日本海の中へ
の如き、フレーズ毎の訳で、矢印やカッコを駆使した表記法をすることを要求している。英文の構造を理解することこそが他の文への応用に通ずると思うからである。
授業では発音の注意、文法、構文に関する説明のほか、記事の背景となる事象−政治、社会、歴史、文化−の解説にかなりの時間をとられる。目標としている軽快で迫力のある授業展開、その中でウンチク披瀝するに至るまでの、余談、雑談の余裕が、望むほどには生まれないのが残念である。時間は限られていても、話の結末を次回にまで持ち越すことは極力避けるようにしている。ニュースの鮮度を大事にしたいことと、授業にメリハリをつけたいからである。いきおい終了時刻が迫ると、残った部分を粗雑に処理せざるを得なくなる。教師と学生の双方に新たな欲求不満が生まれるゆえんである。
週の二度の授業のうち、あとの一回は、さまざまなページから適当と思われるものを拾って読む。四技能の、またトピックの、バランスを考えることは勿論であるが、「おもしろさ」が第一の要件である。私自身がおもしろいと思うものをまず選ぶ。教師がおもしろくないと思う教材ではどんな効果も多くは望めない。最終ページの「オピニオン」などは使われている英語の質、述べられている主張の内容、ともにかなり高度である。外国人による比較文化論的な日本批判の傾向が強いので、挑戦された気分になったり、モノを考えさせられたりすることが多い。そのおもしろさを学生と分かち合いたい気持ちで、しばしば授業にとりあげる。しかし、与えられたものを覚えるのが勉強、と思い込んでいる癖のゆえか、刺激を受けても「モノを考える」というまでには至らない学生が過半で、あまりの反応のなさに失望することも一再ならずある。中学を出てから二年間寄宿生活を送っただけの三年生では、STの知的レベルは高すぎるかもしれない。しかし今の高専生では五年生を対象にしても五十歩百歩であろう。むしろ英語能力と真剣味という点で、現在の学年で使うのが最も効果的と言えると思う。
時には息抜きでマンガやシナリオを読んだり、パズルを解いたりする。教師根性が染みついてしまっているので、英語から完全に逸脱して遊ばせる、ということはないが、毎年一回は授業でとりあげた映画を町の劇場に観に行く。このイベントがSTに関し最も印象に残る授業、ということになる。近年では「ダンスウィズウルブズ」(Dances with Wolves)、「はるかなる大地へ」(Far and Away)、「今を生きる」(Dead Poets Society)などを見た。今年は既に「生きてこそ」(Alive)を団体鑑賞した。映像の迫力と、投げかけられたテーマの重さに圧倒された。
なおざりにしがちな音声面の指導を補うものとして、毎年STが主催するレシテーションコンテストに積極的に参加するよう促している。授業で課題テキストを読み、外人教師に入れてもらった模範テープを希望者に貸し出す。学生が録音してきたものをチェックし、再度入れ直させる。参加者には成績評価のうえで一定のボーナスを与える。日頃の評価が低い者ほどこういう機会に点数を稼いでおくように、との親心であるが、教師が入れこんでいる割りには学生が乗ってこない。物理的(時間的)に、強制された勉強(授業など)以外のことに手を出す余裕がないのか。この世代特有の、面倒臭がりとシラケ気分のあらわれか。
定期試験だけでカバーするには範囲が広過ぎるため、他に年三、四度臨時にテストを行って、試験勉強の負担を軽くしてやっている。しかしこれとて「試験が多過ぎる」という苦情の源となる。試験範囲を狭めることは絶対にしない。ホトケ心を出して、授業で消化した範囲の中から一部をカットして出題範囲とするような甘い姿勢をいったん見せたら、学生は必ずつけこむ。日頃の学習−復習や、やがて来る試験に備えての勉強−は一切しなくなるであろう。直前まで待って試験範囲を聞いてからようやく勉強し始めるのでなければ無駄な労力を費やしたということになるからである。教室で扱った箇所は、たとえ放談の切れっ端でも、全て出題範囲。しかも満遍なく、あらゆる形式の問題を出す、という悪い評判を確立することで、日常の学習を習慣づけ、授業に集中することの大切さを自覚させている(つもりなのだが・・・)
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問 題 点
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教材に使われることを想定して編集しているものではないから、教室では扱いにくい面が種々あ る。活字の小ささ、書き込みスペースのなさ、カサの大きさなどが厄介である。最近では予め指定された記事を拡大コピーして大判ノートに貼り、対面ページに和訳や文法的説明、授業中の作業等を書きこんでいる要領の良い者がいる。他の記事は一切無視、という態度にも見えて少々寂しいが。 4月に徴収する購読費は一人数千円になる。対効果を考えたら安いものだと思うが、他のクラスとの比較や、無駄にする紙面の多さ(読まぬ方が悪い)から「値段が高過ぎる」という苦情が必ず出る。
ニュース英語特有の構文、言い回しに対する戸惑いもあろうが、それ以前の問題として、少なからぬ数の者に、中学校と高校低学年のうちに身につけておくべき基本的な能力−文法、構文、語彙−が備わっていない。文型、話法、態、相のさまざまな形はもとより、仮定法、分詞構文、省略、倒置など、一見受験のための文法事項と見られがちな要素が、新聞英語には−一般に使われている現実の英語には、ということである−頻出する。英文の理解に必須の、そういう語学的重要事項に出くわす度に一応の解説を加えるのであるが、ストーリーの展開を追う作業の妨げとなることを恐れて、全員が納得するほど深くは教えられない。学生の不安そうな顔を見ると、もっとじっくり文法を教えたいという思いにかられる。そういう要求も多い。しかし既に五年間も「いつか本物の英語に触れる時のための」学習用英語を教えられてきて、なおこの時点で、お勉強目的プロパーの授業をやっていたら、彼らは遂に生涯勉強のための語学勉強しかしなかったということになる。折角培ってきた英語力を試すナマの機会を与えられずに終わるということになる。たとえ目を覆いたくなるようなレベルでも、英語に関する限り、多くの者にとって生涯のピークなのである。ナマの英語に触れさせたい。情報を伝えるために実際の効用を発揮している本物の英語の迫力とおもしろさを感得させたい。自分は未熟だと悟ってほしい。あとは意欲の問題である。これをきっかけに遅まきながらでも英語に対して興味を抱き、その実用的価値を認識して新たに意欲的に取り組む者が出てきてほしい。逆に今までの学校英語で好成績をとっていた者が、新聞のために英語嫌いとなってしまう可能性もなくはないが。
オーラルコミュニケーションばやりの昨今であるが、「こんちは」「さよなら」「これいくら」だけの会話で終わらせないために、文法、構文を叩き込み、可能な限り多くの語彙を覚えさせたい。かと言って三年生となった彼らに、いまさら理屈から演繹的に教えるなどは、双方にとってウンザリすることである。「読み」を基本に据えたい。ほとんどの「メソッド」や「アプローチ」で諸悪の根源と蔑まれる「文法訳読式」で堂々と教えたい。理解は和訳を通して、でよい。和訳のコツもどんどん教えてしまう。たくさん読ませることである。能力のある者は自然に法則を導き出し、中途半端な知識をきちんと整理して確実なものとするであろうし、全く断片的にしか理屈がわかっていない者でも、タレ流しになる可能性は大いにあるが、それなりにナマの英語(が与える情報)を楽しむことができよう。「精読」主義は私の性分に合わない。おもしろいものを次々にくり出して、楽しく、テンポよく授業を展開したい。英字新聞が一番である。
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学 生 の 反 応
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上に揚げた表は、最近の無記名アンケート調査の結果である。この調査に見られる学生の反応から、英字新聞を使った授業の功罪を探ってみたい。回答者はほぼ一年間この授業を受けた時点で42名である。前回の調査(沼津高専研究報告第二一号に詳述)の結果と比較したいが、紙幅の関係で、ここでは今回の資料だけを基に考察する。 (一)、(二)、(四)、(七)、(八) ¨ 英語教材として普通の教科書より高い評価を与えている者が76%もいる。添えられたコメントによれば、「教科書くさくないところが新鮮」、「内容がバラエティーに富み、情報量豊富」、「時事問題を現実社会と並行して学べるのが刺激的」などがほめ言葉である。反面、「学習の要点がつかめない」、「単語の羅列だけという印象」、「英語の授業なのに英語力以外の要素が求められる」などのマイナス面も指摘された。最後のコメントはまさにその通りであるが、現実を切り離した言語などは本来あり得ないものであり、具体的な場面では常に純粋な語学の「知識」以外の常識や行動力が必要とされるものであるので、その点を認識させることが(「おもしろさ」とともに)英字新聞を使う最大の理由と言ってもいいと思っている。新聞本来の効用にも多くの者が気づいている。貴重な情報源として、また気楽な雑誌感覚で接している面と、学習教材としての活用法を認めている面の両方があろう。表に示した以外の質問項目に対して、「授業でとりあげた話題におもしろいものが多かった」と回答した者が71%いた。「授業そのものがつまらなかった」という陳述に「その通り」と答えた者は一人もいなかった。(三) はあくまで本人の「感じ」なのだが、自己卑下する傾向の強いこの年代で、また学年末試験を目前に控えている(自信のなさを覚える時期であろう)この時点で、半分近くの者が「向上した」という感覚を持っていることに注目してほしい。接する英語の量と強制された勉強の分だけ向上している「筈だ」、と思っているだけのことかもしれないが。
時事問題など世情にうといと認めるものが70%を占める。そして、新しいSTが配られるのを97%の者が楽しみにしている。これはいかに学生にこの教材が肯定的に受け入れられているかを示す。(四) の結果は予想されたものである。日頃新聞やテレビから遠ざかっている高専生に特に顕17%、それ以外のすべての者がSTの英語に手を焼いている。「予習が大変だった」、「他の授業より苦しみが大きかった」という、過半数の者の感想も正直なところであろう。英語の難しさに加え、授業でカバーした分量の多さに、テスト前ゆえ、ため息をついている様子がうかがえる。「テストの回数が多過」ぎ、「テストのための勉強だ」ったという印象を持つ者も少なくない。必ずしも楽しんで英字新聞に接していたとばかりは結論づけられないのが残念だが、「テストがなければこれほどは勉強しなかったであろう」という感想をほぼ全員が述べている。高専生に勉強の動機づけを与えるのはやはりテストでしかない、という事実にあらためて思いを致す。英文読解の際の最も大きな障害に「語彙力不足」を挙げる者が100%に近い。二年間会話重視の授業を受けてきた、この数年の三年生は、突然与えられたSTに、特にその感を強く持つことであろう。そのうえ四分の三の者が自ら「中学レベルの基礎が身についていない」と認めている。彼らに、教材としてコントロールされていない英文をナマの形で与えることは、教える方にとってもそう楽な仕事ではない。しかし「辛さ」を越えた「喜び」を毎回の授業で感じている。学生がその喜びを分かち持ってくれている気配を嬉しく思いながら、来年度もまたSTを使う授業にはり切って出掛けてゆく。
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