高専実践事例集 |
工藤圭章編 高等専門学校教育方法改善プロジェクト 1994/03/24発行 |
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T人文・社会・外国語系の授業がいまおもしろい
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●太宰治発見!(24〜40P) 太宰治に3年間をかける現代国語授業
鈴木邦彦 |
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発見を仕組んであるドキドキ授業 |
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「今まで誰も言ったことのないほんとうのことを、今まで誰もいったことのないドキドキするような言い方でいっとう最初に言ったもの。」 俳句であれ短歌であれ小説であれ、これがすぐれた文学であることの条件だと思っている。授業に関しても全く同じことが言えるのではあるまいか。おもしろい授業とは、毎時間の授業の中に、学生をドキドキするような発見に導くなにかかが仕組まれていて、それをハッとするような新鮮な話術で伝える授業だろうと思う。私は2年、3年、4年と3年間続けて受け持ったクラスの現代国語で、3年間を通して一貫して太宰治を教材にして授業を行ったが、いつもそのような授業を目ざしてきた。以下、太宰治発見、をめざした私の授業を、かいつまんで報告してみたい。
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まず教師自身が発見しなければ |
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発見とは、学生たちを全く未知の世界へ誘うこと、あるいは今までとは全く別の新しい物の見方へ導いてあげることである。そしてもちろんだが、その発見は、どんな小さなものであるにせよ、教師自身が発見したものでなくてはなるまい。たとえ先人の発見した、現在では周知の真理であっても、それを伝える教師独特の新しい切り口によって切りとられたという意味で、教師自身の新しい発見になっていなければならないと思うのである。たとえどんな大きな発見であっても、それが教師以外の人によって発見され、しかも今ではカビのはえているような遠い昔の発見では学生たちをドキドキさせることはできない。教師みずからの、発見したてのホカホカ授業でなければ、学生はもちろん、授業する教師もドキドキすることができない。教師自身がドキドキしていなくてはどうして学生をドキドキさせることができよう。教師はいつもドキドキしていなければならないと私は考える。おおげさなことを言うなら、教師は一つでも発見を持たずには、どんな授業にも出てはならないのではないか。 さて、前述したように、沼津高専で、2年、3年、4年と続けて受け持ったクラスの現代国語の授業で、私は、3年間一貫して太宰治を教材として取り上げた。学生たちの心の中に、太宰治という、優しさという点で稀有な作家を住みつかせるととともに、それまで学生たちが抱いていた太宰治像とは、おそらく全く異なる、新しい太宰治像を打ち建てたいと願ったからである。 全く新しい太宰治像とは、私自身がこれまでの29年間、ライフワークとして太宰治に取り組んできた研究の総体であり、これこそが発見であると自負しているところのものである。私はその「発見」を、3年間にわたる太宰治授業の中に次のように整理して仕組んだ。 1 太宰治は津軽出身の作家だが、津軽以上に伊豆に深いゆかりを持つ作家であること。 太宰治だけに3年間を費す、ということのマイナス面を少しでも薄めるため、第2学年では「太宰治と伊豆」という視点だけでなく、伊豆にゆかりの深い他の作家の作品もできるだけ多くとりあげるようにした。また第3学年では、太宰とは全く対照的な資質の持ち主である志賀直哉の作品をとりあげ、ざらに第四学年では、芭蕉と太宰の比較を設定し、古典の世界に題材を広げてみた。 これらの「発見」について、今ここで一つ一つ詳述する紙面のゆとりはない。それで、第2学年の太宰と伊豆の関係をテーマにした授業群の中から『走れメロス』に関するものと、第3学年の太宰と志賀の授業のうち、『たずねびと』と志賀の『小僧の神様』との関係についての「発見」とを、次に紹介させていただくことにする。
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発見、『走れメロス』の結末をどう読むか |
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太宰治に、日本の中学生以上の人なら誰でも読んだことのある『走れメロス』という短編がある。あらすじの紹介は省略するが、人間不信に陥っていた王様が、主人公メロスとその友人セリヌンティウスとの友情と信頼のきずなの強さにふれて、めでたく、人間への信頼をとり戻すという話である。人を信じることの尊さと、信じられた者の責任の重さを歌いあげた作品として、しばしば道徳の教材として取り上げられたりもする。まあそれはそれでいいのだが、しかし、この作品を、そのようなメロスの善行讃美の作品として読んでしまうと、どうにも腑に落ちない箇所がこの作品にはある。 それは、この作品の結末部分、次の一節である。 群集の中からも歔欷の声が間こえた。暴君ディオニスは、群集の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」
どっと群衆の間に、歓声が起った。 もし『走れメロス』をメロスとセリヌンティウスの友情と信頼を讃美する話として太宰治が書いたのなら、どうして「万歳、王様万歳」というところで終わらなかったのか。むしろそこで終わるべきであって、「ひとりの少女が」以下につけ加えられた五行は、主題の盛り上がりに水をさす以外の何ものでもない。しかし、太宰は五行をつけ加えた。太宰はどういう意味合いでこの五行をつけ加えたのか。今までの『走れメロス』の読み手でこの五行に着目している人は管見では誰もいない。 私はこの五行の意味を次のように考えた。 メロスは確かにセリヌンティウスの信頼を裏切らなかった。それは讃えられるに値する行為である。しかし、太宰が我慢ならないのは、メロスが、その自分のなしとげた讃えられるべき行為に人前もはばからず、自分で酔い痴れている点だ。あげくの果ては、セリヌンティウスに対してまるでなにわ節かドサ廻りの田舎芝居のような、読んでいて赤面せざるを得ないようなセリフを吐いている。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ」というのである。このドタバタは太宰には我慢できない。善い事をすることは恥ずかしいことだ。メロスとセリヌンティウスには、いや、世の中にもメロスやセリヌンティウスのような、〈棒状の素朴〉をもった輩は多いのだが、その者たちには、含羞の美学がちっともわかっていない。メロスは善いことをした自分をちっとも恥ずかしがっていない。その点でメロスは、「まっぱだか」なのだ。含羞のマントを着る必要があるのだ。「ひとりの少女」がメロスに与えた「緋のマント」は、太宰から、恥ずかしさを知らぬ世の人たちへの渾身の警告なのだ。しかしさすがにメロスは馬鹿ではない。太宰の警告にすぐ気づいている。太宰は『走れメロス』の最後をこう結んでいる。「勇者は、ひどく赤面した」と。 私は以上のように『走れメロス』の結末を読んだ。そしてこの読みは自分自身の発見であると考えた。それを『走れメロス』を扱った2年生への授業でドキドキしながら話した。学生の中には私のドキドキを次のように受けとめてくれる者もいてうれしかった。 太宰治の『走れメロス』は、授業をやる前に個人的に読んだことがある。その時も最後の、「勇者は、ひどく赤面した」という一文はしっかり記憶に残っている。しかしこの文にどれだけの意味が隠されていて、どれだけの効果を示すのかなどは理解していなかった。この事はもうずい分昔のことだが、最近の先生の授業でこの最後の文の意味を悟った時、すごく納得したというか、思わず声に出しそうなくらいうなずいていたと思う。(D2 川原由修) 太宰治といえぱ『走れメロス』を中学の頃読みましたが、その時の国語の先生と鈴木先生の解釈が違いすぎてそこが面白かった。これからも太宰治についてもっと知りたいとは思います。(D2 松下修也) 授業中に、あらあと思って聞いた事があります。『走れメロス』の終りの部分についてです。私もうっすらと、はずかしがっていた少女がいたことを覚えています。当時『走れメロス』なんてかちかちしたイメージがあって、そんな中にちょっぴりつけ加えられた一コマが、なんだかとてもおかしかったからです。先生の授業で、この場面に太宰治という人の主張が見られるなんて、ちょっと意外で、なんだか《ふうん》という気持ちにさせられました。(C2 石関仁美) 教師としては《ふうん》と思ってくれるだけで十分である。
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発見、太宰治は『たずねびと』を志賀直哉の『小僧の神様』 への反発として書いた |
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太宰治に『たずねびと』というちょっとわかりにくい作品がある。太宰治一家が、東京三鷹の家を戦災で焼かれ、妻の実家、甲府の石原家へ疎開するのだが、そこもまた全焼して、妻とトラホームで目のあかなくなっている五歳の長女、さらに乳飲み子の長男とを連れて、上野経由で故郷津軽へ再疎開する途中の、汽車の中での出来事を書いた作品である。真夏の長旅のこととて用意していた蒸しパンもくさって糸を引き、ミルクを溶かすお湯もなく、二人の子供がむずがり出して悲惨な状況に陥っている太宰一家に、天使のような救世主があらわれる。 「蒸しパンでもあるといいんだがなあ。」 「あの、お昼につくったのですから、大丈夫だと思いますけど。それから、・・・これは、お赤飯です。それから、・・・これは、卵です。」 つぎつぎと、ハトロン紙の包みが私の膝の上に積み重ねられました。私は何も言えず、ただぼんやり、窓の外を眺めていました。タ焼けに映えて森が真っ赤に燃えていました。汽車がとまって、そこは仙台駅でした。 「失礼します。お嬢ちゃん、さようなら。」 ところが太宰は、せっかくのこの救世主に対し、感謝するどころか、次のような解せぬイチャモンをつけて『たずねびと』を閉じているのである。 そのひとに、その女のひとに、私は逢いたいのです。としの頃は、はたち前後。その時の服装は、白い半袖のシャツに、久留米絣のモンペをつけていました。 なぜ太宰はこの女の人に素直な感謝を捧げないのか。なぜ「にくしみを含めて」「あの時の乞食は、私です」などとひねくれなければならないのか。 私は、ものをめぐんでもらうという点で同じ主題を扱った志賀直哉の『小僧の神様』をぶと思いついた。志賀直哉の『小僧の神様』は、はかりやの小僧仙吉が、自分が日頃食べたい食べたいと思っていて、一度赤恥をかくような思いで食べそこなったすしを、自分では全く見ず知らずの貴族院議員のAに、たらふくおごってもらう話である。『小僧の神様』の「神様」とは、そのおごってくれたAに対して、恥ずかしいという思いも抱かず、プライドも傷つかず、ひたすらありがたいと思い込んでいる小僧仙吉の、Aに対する感謝の気持ちの表現である。 『たずねびと』における太宰のあの不可解なひねくれた最後の捨てゼリフ、「一種のにくしみを含めて言いたいのです」というあの一言は、『小僧の神様』の、小僧仙吉の自尊心のなさ、いや、小僧仙吉を、そのようなプライドを知らぬ虫けらのような存在として書いた、志賀直哉の態度に関係があるのではあるまいか。いやそれ以外はあるまい、と私は思った。しかも太宰は、のちに、『如是我聞』の中で『小僧の神様』に次のような激越な批判を浴びせているのだ。 「小僧の神様」という短編があるようだが、その貧しき者への残酷さに自身気がついているだろうかどうか。ひとにものを食わせるというのは、電車でひとに席を譲る以上に、苦痛なものである。何が神様だ。その神経は、まるで新興成金そっくりではないか。 ここで太宰が「貧しき者への残酷さ」と言っているのは、『小僧の神様』の中の、たとえば次のような一節であろうかと思う。小僧がものの見事にすしを食べそこなう場面である。 その時不意に横合いから十三、四の小僧がはいって来た。小僧はAを押しのけるようにして、彼の前のわずかな空きへ立つと、五つ六つすしの乗っている前下がりの厚い欅板の上をせわしく見回した。 さて、私は、太宰治の『たずねびと』の不可解さを、『小僧の神様』に対峙させてみることによって次のように解釈してみた。 『たずねびと』と、太宰はやわな言い方でほおかむりをしているが、『たずねびと』とは、実は「おたずね者」の意味である。つまり〈Wanted〉なのである。わずか二十枚のこの短編の中で、太宰は、罪状をつきつけつつ重要犯罪を犯した犯人を追いつめている。罪状は貧しき者への残酷を平然と行った科である。貧しき者にものを食わして嗜虐的な喜びを求めようとし、しかもそれを毫もかえりみようとしない者の罪であり、貧しき者の背負った恥を公衆の前にさらし者にして何ら心痛まぬ冷たい眼の持ち主への罪である。そして、その犯人はすでに割れている。それは、志賀直哉が、『小僧の神様』の中で、奇しくも「神様」と崇めたてまつった、「神様」その人にほかならない。志賀直哉の「神様」は、太宰治においては重要犯罪の「犯人」なのだ。太宰治は、その犯人に向かって優しく、そしてぐさりと呼びかける。「お嬢さん。あの時は、たすかりました。あの時の乞食は、私です」と。 志賀直哉は、『小僧の神様』の中で、人にものをただで食わせてもらって恥じ入ることを知らず、かえって「神様」ではないかと思い込んでしまう、一人のあわれな下層階級の少年を嘲笑し、なぶりものにし、さらしものにしてみせた。太宰は、この老大家の、あたかも蛇がねずみを弄ぶかのような仕打ちに堪えられなかった。それで太宰は、『たずねぴと』の中で、自分がそのあわれな「小僧」になってみせたのである。恥じ入り、プライドを傷つけられたら怒ってみせる心を持った「小僧」に。そして、いたぶられた「小僧」の悔しさと怒りを、この老大家の目の前につきつけたのである。貧しき者が富める者からものをめぐんでもらうことが、いかに貧しき者のプライドを傷つけるか、煮ても焼いてもかわりそうもない、鉄面皮のこの老大家の面前にである。その意味で『たずねぴと』は、太宰が「小僧仙吉」になりかわっておこなった復讐劇だと言うことができる。 もちろん私は、この私の仮説を、ドキドキしながら授業で話した。学生たちは真剣なまなざしで聞いてくれたが、彼らは、私よりもっと冷静に、穏やかに太宰と志賀を見はじめたようである。次の一文は、学生のひとりが感想文として書いてくれたレポートである。 太宰治の授業をうけたある日の放課後、わたしは、友人と話をしている間に、いつの間にか太宰の作品と授業について話し合っていました。わたしは太宰の考え方や作品に、授業を通してはじめて出会いました。むずかしい書物を読むよりも、もっとわかりやすく授業で解説していただいたので、太宰の本当の考え方や生活を知ることができましたし、作品も、自分で読んだだけでは読みとれなかった部分までよく理解できたと思います。細部まで、理解した上で、わたしたちは次のような会話をしたのだと思います。
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「太宰治と伊豆」から「八雲と焼津」へ |
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今、これを書いている研究室の机の上に、「八雲と焼津」と題する、400字詰め原稿用紙、36枚にのぼる部厚い論文が置かれている。これは沼津高専物質工学科3年生で、焼津市の住人、栗林央君が、約半年をかけて書き上げた論文なのである。 昨年の6月ごろであったか、「太宰治と伊豆」という、地方新間に20回連載した拙文を教材に、太宰治と伊豆との結び付きを講義し終わった時、栗林君が興奮気味に、「先生、焼津にも小泉八雲がいましたよ」と話しかけてきた。彼は幼い時から、焼津に住んだことのある小泉八雲のことを聞かされて育ち、また自らも焼津にある小泉八雲顕彰会に出入りして広く学んでいたようで様々のことを知っていた。「じゃ、八雲と焼津のことをもっと深く調べて、論文にまとめてみたら」とすすめたのであった。 それから半年後の十一月、私の留守中の研究室に、ずしりと置かれていたのが、この論文なのであった。栗林君は、私の一言を、受けとめてくれていたのだった。教師冥利につきる、という言い方があるが、私はいい学生にめぐりあえた喜びを押さえかねている。 栗林君の「八雲と焼津」は、次の八章から成っている。(一)焼津という街、(二)八雲と八雲の思想、(三)焼津と八雲、(四)八雲の足跡、(五)焼津と松江、(六)日本と八雲、(七)現在の八雲像と八雲文化、(八)あとがき、である。研究資料も広く漁り、実地調査は焼津はもちろんのこと松江にも及び、驚くことには、栗林君は、夏休み、ハーンの生地ギリシャにまで足を伸ぱしている。ギリシャには、ハーンの足跡は一つも残っていなかったということで、この論文には、そのことは一言も触れられていないけれども。 「八雲と焼津」は、焼津の住人として、思いを深く故郷に寄せる栗林君が、同じように、焼津をこよなく愛した一人の異邦人、ラフカディオ・ハーンと、焼津というギリシャに似た美しい港町をなかだちに触れ合った、二つの魂から生まれた研究である。一読すれば、すぐ分かっていただけるだろうが、栗林君は、この仕事を通してますます八雲への思いを深めると同時に自分の故郷焼津への愛情を深めている。これこそが本当の研究というものだろうと思わずにはいられない。紙数の都合で同君の研究が本書に収録できなかったことに対しては、断腸の思いを禁じえない。いつかしかるべき形で、世に公にできたらと考えている。 「太宰治に三年間をかける現代国語授業」が、太宰だけにとどまらず、学生自身の手によってより豊かな世界に結実してくれたことは、私の望外の喜びというほかはない。
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