高専実践事例集V |
工藤圭章編 高等専門学校授業研究会 1998/12/20発行 |
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まえがき(3〜5P) 工藤圭章 沼津工業高等専門学校長 |
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沼津工業高等専門学校では、平成四・五両年度にわたって、文部省教育方法等改善経費による「高等専門学校における人文科学・社会科学の総合化に関する研究」をおこなった。この研究は関東・東海地区に所在する高等専門学校の一般教養科目担当の教官によるプロジェクト・チームを構成して始めたもので、各年度三回ずつ計六回会合して各自の進めた調査研究をとりまとめ、また、その都度問題を提起して進めている。この調査結果については、平成五年三月に中間報告書を作成し、また平成六年三月に本報告書を作成している。一方、このプロジェクト・チームによる調査研究に併行して、「人文科学・社会科学の総合化について」のテーマで、高等専門学校教員研究集会が平成四年八月に徳山・旭川両工業高等専門学校の担当でおこなわれ、さらに平成五年八月には同じテーマで、再度研究集会が和歌山・豊田両工業高等専門学校の担当でおこなわれた。これらの集会では、総合化についての各高専での実践例が紹介され、それらの例の多くは教科内での個々の教官による総合化教育であることが報告された。また、研究討議としては、総合化の意義、実施方法、今後の展望など、各会場において活発な意見交換がおこなわれている。
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●プロジェクトからの提言(11〜20)
一般教育への提言 平成4、5年度教育方法改善プロジェクト |
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はじめに |
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平成4年4月に国専協からの要請があって、「高等専門学校における人文科学・社会科学の総合化に関する研究」というテーマの研究プロジェクトが、その5月にスタートした。 高専の教育に関しては、実践的技術者の養成の面で産業界からの高い評価を得ているものの、一般教育に対しては、専門教育が受けているほどにははっきりした評価を得ていない。むしろ、大学卒に比べて、教養や外国語の力が劣るのではないかというような耳の痛い話を聞くこともある。 本来、高専の教育システムは、一般教育と専門教育を楔形に噛み合わせて、大学の教養課程よりはもう少し有機的なつながりがもてるようになっている。また、一般教育自体も、独自の目的をもった高専制度の趣旨にふさわしい教育内容・教育方法が展開できるようになっている。このような大学と違った、大学よりはよくできているのではないかと思われる教育制度の中で、一般教育の実績がよく写らないのはどうしてであろうか。プロジェクトは常にこうした問題を見据 えて高専教育の中の一般教育、とりわけ人文、社会、外国語系のあるべき教育を考えて来た。学校五日制が実施されて、教官にも、学生にも、ずいぶんゆとりがでてきた。しかし、教育課程の面からみると、過密だという状況は解消されていない。全国高専の最低修得単位数は、専門科目82単位、一般科目75単位、専門科目と一般科目のどちらに設定してもいい枠が10単位、合計167単位とされている。これに対して、例えば沼津高専の場合、専門科目91 〜 93単位、一般科目86単位の合計177〜179単位となっており、自由度のある10単位枠は専門科目に9 〜 11単位、一般科目に4単位が振り分けられ、その過密感はぬぐいきれない。これから科目を少し減らすとすれば、減った分の成果に見合った学力の埋め合わせが要求されるようになり、今後、一層効果のあがる科目の在り方、あるいは授業の進め方を考える必要に迫られる。 高専のこの限られた時間の中では、教えられる知識にも限界がある。そのうえ、一般教育で教えた知識の中には、時代の流れの中で陳腐化して、用をなさなくなるものもある。また一方では、学校を出てからも身につける必要のある知識も数多く出てくる。したがって、これからは、知識の伝達よりも、また習得した知識の量よりも、学んだ知識を結び付けて新しい考えに到達するような力、そういう一生に役立つような発想法なり思考法、あるいは理解の仕方などを重視し、そういう力を鍛える方が重要になってくる。 プロジェクトでは、こうした高専の中の一般教育、中でも人文、社会、外国語系がおかれている 現状をふまえて議論を重ね、以下に示すような「一般教育への提言」をまとめた。
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学生の声を聞こう |
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大学、短大と並ぶ高等教育機関である高専は、研究機関であるとともに、何よりも教育機関である。個々の教官及び教官グループによる研究は、ときに自分が教育に従事しているということをも忘れさせてしまうような楽しさ、あるいは苦しさがある。しかし、我々の仕事は教育である。 教育の目標は、教育を受ける学生が自ら学び、自ら伸びて行く力を育てることにある。教師は、おのずから学生のためを思って最適な教授法を考えて、日々の授業実践を行っている。それも、手ごたえを確かめつつ行っている。 高専の教官は、結構忙しい。論文の締め切りや学会発表が迫っていたりすると、物理的に授業の準備に時間がさけない。また、校務分掌の重要ポストに忙殺されたりすると、授業どころではなくなってくる。このほかにも、教師がゆとりを失う条件はいくらでも転がっている。 こんなとき、学生の気風が変わっていて、自分自身もいつのまにか学生と隔たってしまっていることに気づかずにいるものである。そんなときは、授業の手ごたえもない。こんなはずではなかったという焦燥感に襲われ、完全にペースが狂ってしまう。教師自身に消化されていない教授内容や教師自身が面白くもない講義は、聞かされる者にとっては退屈であり、迷惑なものである。相手が小学生のように我慢をしないものであったら聞いてくれるはずがない。高専生でも状況は同じようなものである。授業を聞いてくれなければ、自己教育力を育てることなどただのお題目に過ぎない。こんなときは、授業の原点に戻るしかない。学習者である学生の目線まで降りて、戦略を立て直さねばならない。何らかの方法で学生の反応を確かめられれば、突破口は開ける。授業のやり方に対する反応でもいいし、教材に対する反応でもかまわない。学生の声こそ、せっかくのいい教材をおいしく、味付けできるかどうかの決め手になると考えていいのではないだろうか。
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総合化を考えよう |
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高専教育活性化の方法として『総合化』というものを考えたとき、『総合化』の行き着く着地点は、「一般教育と専門教育の総合化」の検討と「学生自身による総合化」の育成の二つに絞られてくる、とプロジェクトは予測しいてる。 前者について言えば、高専は主に工業技術者を育てる教育の場である。したがって、そこで行われる一般教育もまた、技術者教育の役に立たなければならない。それは、理念としてそういうことを心掛けるということに止まるのではなく、カリキュラムや教官組織にまで踏み込んだ、技術者教育との関連づけや工学教育を補完する在り方が考えられなければならない。 後者について言えば、生涯教育のめざす「自己教育力育成」の手段として、『総合化』を考えることができ、この手法を通して、学生自らが学び取った知識や考察法を結び付けて新しい発想にたどりつく「学生自身による総合化」という教育の理想を実現することができる。 教師は授業を通して、または魅力ある教材を通して、知的好奇心をかきたて、いろんな要素を有機的に関連づけて、多面的なアプローチで本質に迫れば、基礎的、基本的な内容を分かりやすく理解させることができ、また、そういう学び方を習得させることができる。こうした『総合化』の手法が最も効果を発揮するのは、系統的に知識を伝達するような授業ではなくて、知的好奇心をかきたて、学問や興味あるジャンルへのきっかけを与えるような授業においてである。 教師が授業方法に関して、こうしたノウハウを膨らませるには、仲間の知恵を借りるのが一番の近道である。経験を積んだ教師の実践話は何冊の本を読むよりもためになる。また、自分とは専門の違う教師から学際的な話を聞くことも、自分の幅を広げるきっかけとなる。意思が通じ合えば、一緒に面白い試みも実行できる。 教師が、これまでの自分の枠を越えた観点や知識や手法を持ち込んで授業を行おうとするとき、それはもう『総合化』である。そこから『総合化』には、「教科内総合化」と「教科間総合化」、それに「総合科目」の三つの形態が考え出されてくる。このうち、「総合科目」は複数の教師によって進められる合科教育で、「学生自らが総合化する」には最も向いた形態である。教師によって題材も違い、着眼点も、展開も違うという点で、学生は変化に富んだ、豊かな体験をすることになる。高学年に向いているかも知れない。「教科内総合化」は、一人でやることが多くなるが、これも複数の教師との接触を通して得たもの、とりわけ自分のもっていないノウハウを吸収して自分の幅を広げるという態度がだいじで、自分の殻に閉じこもっての『総合化』には発展性がない。もう一つの「教科間総合化」は、二、三の教科が共通のテーマに限定して、相互乗り入れし、それぞれの教科の立場で展開するもので、これも学生にとっては新鮮味の濃い授業方法になる。 大学や短大よりも一般教育と専門教育の有機的なつながりを考えやすいという高専独自の環境の中で、これからは、各高専に、二つ、三つの「総合科目」なり「統合科目」が出て来てもいいのではないだろうか。
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年間指導計画を出し合おう |
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我々は、何らかの指導案をもって授業に臨んでいる。計画通りにはいかないこともあるが、ずさんな指導案では失敗する確率は高い。指導案は、自分固有のもので人には見せたくないという感情がある。一方で、ほかの人はいったいどんな授業をしているのだろうか、それを知りたいという感情もある。ほかの人の授業は、よい刺激になるから何か参考になるような資料を出し合えるといい。 現在、各高専には個々の教官の教授内容を示した教授要目があるが、それをみてだれがどんな授業をしているかを理解するのは難しい。だから、年間指導計画を出し合うというのはどうだろうか。 年間の授業時数は限られている。だから一時間、一時間がだいじなわけである。そして、一年間の見通しもだいじである。この両方を組み込んだ計画案が、年間指導計画である。年間指導計画は、教科の目標を冒頭に掲げ、その後に、各題材のねらいと内容が続く。教科の目標は、上位の総合目標と下位の具体目標に分けて明示した方がよい。そして、目標達成に向けて最も適切な内容を項目として合理的、効果的に配列する。内容項目は小単元ごとでもいいが、一時間ごとのものを一、二行にまとめたものほどいい。通年二単位の教科なら、せいぜいB4判二枚程度に収まる。 たいていの教育内容は、それでこういうことが教えられるという目標的価値と、これはこういう方法で教えられるという方法的価値を合わせもっている。それが不明瞭なものは削除すべきである。魅力ある年間指導計画をつくるには、一時間ごとのタイトルを工夫するのがよい。魅力あるタイトルは、好奇心をかきたてるだけてなく、その内容と目標も伝わってくる。 教育内容は、教科書や学問体系に即して選ばれる場合が多い。しかし、望ましいのは現実の学生に即して、今何を彼らに学ばせるべきかを教師自らが判断し、その内容を選定することである。 教師が、自らのカリキュラムをもったときは強い。目標と内容と方法が見えているから、自信をもって授業が進められる。自主編成のカリキュラムをもっていれば、自分がどんな授業をしているかを紹介することもできる。授業の準備もしやすい。
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授業方法の幅を広げよう |
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優れた教材は、目標的価値、内容的価値、方法的価値の三つを合わせもっている。したがって、すぐれた教材一つでかなりの教育効果を上げられる。そういうネタ探しはだいじである。このネタは使えるぞという直感は、やがてそのネタを教材に磨きあげる過程で、優れた教材だという確信に変わる。このような優れた教材は、教師が先に発見したよろこびを、授業を通して学生と共有することができる。すぐれた教材が学生の認識を塗り替えるという効果はだいじにしなくてはならない。 それと同時に、教具や授業形態の果たす役割もバカにしてはいけない。物を持ち込んだり、発表させたり、ディスカッションさせたりすると集中度は高くなる。五年生の国際教養で火山の話をするとき、5分間ほど1983年の三宅島噴火のビデオを見せたところ、それだけでも臨場感があって、手ごたえは大きく違った。地理のように事象に即した学習をする場合には、VTRの活用効果は大きい。高専の教師は、教科指導の一貫性をだいじにする立場から、多くは講義形式をとり、その巧みな話術で学生を魅了する。しかし、ときには指導の新領域へ踏み込むのも、学生の視点を変え、マンネリ化しがちな自分を奮い立たせるためにも必要なことではなかろうか。 指導技術の開拓には、教育書を読む方法もあるが、仲間の教師と話しをするのが手っ取り早くてよい方法である。経験者は、その方法が現場に一番合っていることを熟知しているから、それをまねてはどうだろうか。視聴覚機器などを使う場合には、施設や設備、教材費等の面で壁に突き当たることがあるが、工夫すれば少しは実施できるし、実績を積めば概算要求も通りやすくなる。 このように授業方法の改善は、教師仲間の間で考え合うのがみんなの底上げにつながり、他のメリットもある。高専によっては、定期的な談話会を行っているケースもある。「高専教育」や「研究紀要」に実践を掲載するのも一つの方法であるが、校内で、「教科指導情報」といったかたちのもっと気軽な情報交換手段もあっていいのではないだろうか。
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教育集団をつくろう |
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高専の教官組織は、意外と機能していないことが多い。会議が少ないことや会議時間が短いというのは、それはそれでいいが、『総合化』のような教育方法を広めるにはそこがネックとなる。一般科目でこういう話題が単なる報告としてでなく話し合えるなら、一般教育はおそらくドラスチックに変わるだろう。しかし、現実は教師間の相互理解が一番難しい。硬直した状況を変えるのは必ずしも意識の高さではない。むしろ中間層がカギを握っている。意識の高さでは壁は突破できない。意識の高い教師が挫折すれば、これがまた一番大きな障害となる。意識は高くなくても、何か効果があるかもしれないという程度で中間層が動けば一般科目は変わって行く。 『総合化』を定着させ、発展させるには、教育集団の形成が必要である。教育集団とは、共通の目標とコンセンサスで結ばれた目的達成機能をもった集団である。それは学年集団のような小さな集団から大きな集団まで各種のレベルがあり、達成する目的が消滅したら存在する必要はなくなる。目的を失って、集団維持機能だけを求めるようになると苦痛で、危険である。 教育集団づくりは、事例研究を通じて地道に進められるもので、成員の意識変革を伴うものである。個々の教師は、教育集団の中で共通の教育的価値をもてるようになり、仲間と知恵を出し合って仕事を進めるようになる。これを潤滑に進めるためにアフターファイブの付き合いも必要である。
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専門教育との関連を模索しよう |
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高専は、技術者を育てる場であるが、国民、市民としての資質を高める場でもある。工学的な知識や技能の他に必要なものはまだある。それは、国民に必要とされる基礎的、基本的な知識とか、人間としての感性とか、あるいは表現力などである。一般科目は、高専における自らの役割としてもっとそれを意識して、技術者教育との関連づけや、工学教育を補完する教育の実践をしなくてはならない。それを机上の空論に終わらせないようにするには、専門科目と一般科目が何らかの話し合いができるような環境づくりが前進への一歩となるであろう。 近代科学技術が人類に与えた功罪は大きい。一般教育も今からそれを考えなければならない。一般科目でなければできないものも相当あるはずである。一般教育が技術者教育の一環として機能するようになったとき、高専教育は大きく変わっている。
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